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インタビュー

“アジアは一つ”との大いなる自覚に立て!

※今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 われわれは、暗黒を引き裂く稲妻の閃く剣を持っている。なんとなれば、恐ろしい静寂は破られなければならず、新しい花が生い出でてその美しい色で大地を覆うことができる前に、新しい生気の雨の滴がそれを清新にしなければならないからである。しかしその大いなる声が聞えてくるのは、この民族の千古の道筋を通って、アジアそのものからでなければならない。内からの勝利か、それとも外からの強大な死か。(富原芳彰訳)
 
 これは、著書「東洋の思想」(講談社学術文庫)の末尾を結んだ岡倉天心の言葉である。隣国の中国との国交正常化40周年の佳節を迎えた今年、両国間の緊張が高まっている渦中にあって、この一編の詩のような天心の言葉が、時を超えて強く胸に迫ってくるのは本誌だけだろうか。
 真に中国と向き合うということは、単に政治や経済といった狭義ではなく、"アジアは一つ"との大いなる自覚に立つことに違いない。そんな強いメッセージが天心から発せられているように思えてならない。そこで、今号では「東洋の思想」の中から、誌幅の許す限り天心の言葉を紹介したいと思う。
 「天心によれば、こうしたアジアの多様な、民族的・地域的・時代的な文化が、その個別多様な姿を失うことなく、日本において受容され、あたかも『アジア文明の博物館』のごとき態をなしつつ融合され、『一つの』日本文化を形成し、その歴史を形づくっているということこそ、まさに『アジアは一つである』ことの生きた裏づけを我々に示すものと考えたのである」と。東京大学名誉教授の松本三之助氏は、こんな興味深いことを同書の解説に書いている。
 
 アジアは一つである。ヒマラヤ山脈は、二つの強大な文明、すなわち、孔子の共同社会主義をもつ中国文明と、ヴェーダの個人主義をもつインド文明とを、ただ強調するためにのみ分っている。しかし、この雪をいただく障壁さえも、究極普遍的なるものを求める愛の広いひろがりを、一瞬たりとも断ち切ることはできないのである。
 そして、この愛こそ、すべてのアジア民族に共通の思想的遺伝であり、かれらをして世界のすべての大宗教を生み出すことを得させ、また、特殊に留意し、人生の目的ではなくして手段をさがし出すことを好む地中海やバルト海沿岸の諸民族からかれらを区別するところのものである。
 アジア文化の歴史的な富を、その秘蔵の標本によって、一貫して研究できるのは、ひとり日本においてのみである。帝室御物、神社、発掘された古墳などは、漢代の技術の精妙な曲線をあらわに見せてくれる。奈良の寺々は、唐代の文化、および、当時燦然として隆盛をきわめ、この古典期の創作に多大な影響を与えたインド芸術をあらわす作品に富んでいる―それは、かくめざましき時代の宗教的儀式や哲学はいうまでもなく、音楽、発音、式典、衣裳までもそのままに保存してきた国民に至極当然な祖先伝来の財宝である。
 さらに、諸大名の宝庫も、宋および元朝に属する芸術品や写本を豊富に蔵している。そして中国自体にあっては、前者は元の征服期間中に失われ、後者は反動的な明の時代に失われてしまったので、このことから、今日の中国の学者の中には、かれら自身の古代知識の源泉を日本に求めようとする動きを見せている人々もいるのである。
 かくのごとくにして、日本はアジア文明の博物館となっている。いや博物館以上のものである。なんとなれば、この民族のふしぎな天性は、この民族をして、古いものを失うことなしに新しいものを歓迎する生ける不二元論の精神をもって、過去の諸理想のすべての面に意を留めさせているからである。
 日本のいかんともなしがたい本来的運命たるその地理的位置は、中国の一州もしくはインドの一植民地のごとき知的役割をこの国に果させようとしたかに思われるであろう。しかしわれわれの民族の誇りと有機的統一体という岩石は、アジア文明の偉大なる二つの極から押し寄せる強大な波濤を浴びながら、千古厳として揺るがなかったのである。
 国民的本性はかつて圧倒されることはなかったのである。模倣が自由な創造に取って代わるということはかつてなかったのである。受けた影響を、それがいかに巨大なものであろうとも、それを受容して改めて応用するための豊かな活力が常にあったのである。
 アジア大陸の日本に対する接触が、常に新しい生命と霊感とを生むことに寄与したということは、アジア大陸の光栄である。なにか単なる政治的な意味だけに止まらず、さらにもっともっと意味を深くして、一つの生ける自由な精神として、生活、思想、および芸術において、絶対他の征服を許さざるものとしてみずからを保っていることは、アマの民族のもっとも神聖な栄誉である。
 武勇に富む神功皇后の心を燃え立たせ、彼女をして敢然海を渡り、大陸帝国をものともせず、朝鮮にある朝貢諸国の保護に赴かしめたものも、この意識であった。権勢をほしいままにする隋の煬帝を、「日没する国の天子」と呼んでこれを瞠若たらしめたものもこれであった。やがてウラル山脈を越えてモスコーに達すべき勝利と征服の絶頂にあったクビライ汗の、傲慢な脅威を退けて動じなかったものも、これであった。
 そして、日本自身にとってけっして忘れてはならないことは、今日日本が新しい問題に直面しているのは、この同じ英雄的精神のしからしめるところであって、これらの問題に対しては、日本はさらに自尊の念を深くする必要があるということである。
 日本を改造し、また日本をして、東洋世界のかくも多くを打倒した嵐を無事に切り抜けることを得させたものは、小規模ながら同じ自己認識であった。そして、アジアをふたたび往昔の確固不動の強さとに築き上げるものは、この同じ自覚の再生でなければならない。時代そのものが、前途に展開する可能性の多様さに当惑している。
 日本でさえも、明治時代の錯綜したかせ糸の乱れの中にあって、それ自身の未来への端緒を与えるような一本の糸を見い出すことができないでいる。その過去は、水晶の数珠のごとく、明澄かつ連綿として続いてきた。
 この国の運命が、インドの理想と中国の倫理とを大和の天才によって受取り精錬するものとして、はじめて授けられた飛鳥時代の昔から、これにつづく奈良および平安の予備軍的段階を経て、藤原時代のかぎりなき献身、鎌倉の英雄的反動、その絶頂としての、あのような峻厳な情熱をもって死を求めた足利武士のはげしい熱誠と崇高な精進などの中にその絶大な力を啓示するにいたるまで―これらすべての段階を通じて、この国の進展は、一個の人格のそれのごとく、明澄にして混乱なきものである。
 しかし、今日は、大量の西洋思想がわれわれを混迷させている。われわれの言い方をすれば、大和の鏡は曇らされている。維新とともに、日本は、たしかに、その過去に立ち返り、そこにこの国が必要とする新しい活力を求めている。すべての真正な復古と同じように、それはある異なるところを持った一つの反動である。
 すなわち、足利時代にはじまった芸術の自然への自己献身は、いまや、民族への、人間そのものへの、献身となったのである。われわれはわれわれの歴史の中にわれわれの未来の秘密がかくされていることを本能的に知っており、われわれは盲目のはげしさをもってその糸口を見出そうとしてまさぐっている。
 しかし、もしこの考えが真実であるならば、もし実際にわれわれの過去の中に新生の泉がかくされているならば、いまこのとき、それは一大強化を必要とするものであることを、われわれは認めなければならない。というのは、近代的俗悪の焼き焦がすごとき旱天が、生命と芸術の咽喉をからからに渇かしているからである。
 
 ここで紹介したのはわずかだが、どんな感想をもたれたであろうか。もちろん、こうした天心の言葉は、時代背景などを考慮して受け止めなければならない。だが、冒頭で紹介した言葉のように天心の言葉はすべて詩の如く、時代を超えてその底流に横たわる大きな変革のマグマをいつでも揺り動かす力を持っているのである。