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インタビュー

質量あるモノづくりに必要なものとは

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 つい最近、プロスキーヤーの三浦雄一郎さんが80歳で、史上最高齢となるエベレスト登頂に成功したことが話題となった。政治家をはじめ責任ある人たちの口から、あまりに軽々な言葉が放たれるだけに、命を懸けた無言の行為にかえって"言葉の重さ"といったものを教えられた気がしている。
 「言葉の重さ」と言っても、重々しく難しい言葉を用いるといったことではない。孔子が「九思一言」といい、そして誰もが幼い頃から接してきた「子は親の背を見て育つ」といったことである。家族の反対に合いながらも成し遂げた三浦さんの行為に、年齢や性別、嗜好をも超えて共感や感動を抱くのはその"重さ"のゆえであると思う。
 実存するものには必ず質量がある。質量のあるものが当たれば、それ相応の衝撃(エネルギー)が伝わっていくものである。それは、けして目に見える現象世界だけに止まるものではない。心や言葉といった目に見えない世界にも"通じて"おり、その重さに相応して心が動かされるのである。
 いうまでもなく「通じて」と表したのは、文字通り2つの世界が通じていると思うからだ。心や言葉の質量は、現実を生きる営為の積み重ねとはいえないか。結論的に言えば、人としての成長を示す、器の大きさや境涯の高さとして表れて来るものに違いない。
 逆に、そうした"重さ"はモノづくりにも表れてくるとすれば、巧まずして人の心を動かす質量のあるモノを生み出すことができよう。やはりモノづくりは人づくりであり、パッケージづくりは自らの器づくりであらねばならない。その意味で、今回は人物に焦点を当てたエピソードが綴られた、鶴見俊輔氏のエッセイ集「思い出袋」(岩波新書)から一部を紹介したい。
 
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 人間には、卒業しやすい型と卒業しにくい型とがある。日本の知識人の大体は前の方だが、たまにあとの方がいる。私が親しみを感じる、というよりも、敬意を持つのは、あとの型の金子ふみ子である。この人の伝記を、瀬戸内晴美は「余白の春」(中央公論社)に書いた。
 金子ふみ子は、小学校にも続けていっていない。父は、女をつくって家を捨て、母は男を家にさそって、娘が帰ってきても家に入れない。ふみ子は、祖母をたよって朝鮮に渡るが、そこでも貧乏な親類として冷たいあしらいを受け、むしろ日本人に低く見られている朝鮮人に親しみをもった。
 この親しみは、日本に帰ってからもふみ子の支えとなり、ここで何人もの朝鮮人に友を見出す。なかには、日本が朝鮮をとったということに対する不快感を、毎日顔面に表現しつづけている男がいて、彼に共感して一緒に暮らすことにした。
 彼の反感は、天皇に向けられる。日本が法治国家であれば、なにかの行動を起こしたときに、あるいは行動を計画した証拠があるときに、はじめて捕まるのが正当だろう。しかし、朴烈とふみ子とは、つかまえられて、死刑の判決を受ける。
 彼らの友人の批評によれば、朴烈は顔面表現によって罰せられたのだという。やがて、天皇の名で大赦が伝えられた。この知らせを受けたとき、金子ふみ子は、それをしりぞけた。もともと天皇暗殺への行動を起こした事実がないのだから、いまさら大赦を受ける理由はない。
 彼女は自分の独房に戻ってから自殺した。今、この時、自分は王のゆるしを退ける勇気を持っている。しかし、この後に続く長い日常の時間に、おなじ勇気を保ちつづけることができるか。そうみずからに問う予測感覚をこの人は保っていた。
 獄中で彼女の書いた記録「何が私をかうさせたか」(春秋社)は、今この時は、永遠の中に保たれるという直感を述べている。それは、キルケゴールの説いた永遠の粒子としての時間という直観と響き合う。この人は、小学校、中学校、高等学校、大学という明治国家の工夫した学校の階梯を登らずに、自分の思想として、この直観を述べた。
 小学校から中学校へと、自分の先生が唯一の正しい答えを持つと信じて、先生の心の中にある唯一の正しい答えを念写する方法に習熟する人は、優等生として絶えざる転向の常習犯となり、自分がそうであることを不思議とは思わない。金子ふみ子とは、この学校の階梯を登ることなく、自分の経験を吟味することから道を開いた。
 大山巌は、西郷隆盛の従弟にあたる。1863年の薩英戦争の直後から砲術を研究し、1869年にはヨーロッパにわたって、普仏戦争の実情を見た。1871年、再びヨーロッパにわたり、スイスに住んでフランス語と砲術を学んだ。そのとき、フランス語の個人教授に雇い入れたのがメーチニコフだった。
 ところがスイス政府筋からしらせがきて、あなたの雇い入れた個人教師はロシア政府のおたずねものである。あなたは日本政府の高官と聞くが、あなたの不利益とならないのか。大山は答えた。自分はかつて日本政府のおたずねものだった。自分たちの仲間が政権をとったので、自分は今は政府の高官である。外国語教師として頼んだこのロジア人の仲間が、やがて政権の座につかないと誰が言えよう。
 葬儀の席で隣合わせた古在由重に聞いてみた。「古在さんは、子どものときに、大山元帥に抱かれたことがあるそうですね」。すると、「本当はもっとおもしろいんだ。沼津の裏山で小学生の僕が一人で遊んでいると、向こうからふとった人が歩いてきた。写真で見たことがある大山元帥だと思って、おじきをした。すると、大山さんも立ち止まって、きちんとおじぎを返した。他に見ている人が誰もいないのに」。
 維新を通った人には革命精神があるというが、大山巌についての古在由重の評価だった。メーチニコフ著「回想の明治維新」(渡辺雅司訳、岩波文庫)と合わせて思い出された。
 満州派遣軍総司令官の大山巌は、総参謀長の児玉源太郎に仕事をさせた人として私の記憶に残っている。大冊の大山伝の中に、息子の回想がのっていて、彼が恐る恐る「総司令官てなにをするんですか」とたずねると、「知っていることでも、知らんように聞くことよ」という答えが返ってきたという。
 児玉源太郎は、同時代の世界史で比べようのない優れた軍人だった。19世紀のナポレオン、20世紀のヒットラーが負けたロシアを相手に、児玉の指揮した日本は負けなかった。それは児玉が、どういう世界状況の中で日本がロシアと戦うかについての見通しを持っていたからだ。
 ヨーロッパ留学の経験もなく、幕末からの変転する状況の中で、状況を読み続けた児玉には、後代の軍人、そして官僚の、学習による知識とは違う知恵があった。その時の頂点にある先進国の知識を最短期間に学習するという日露戦争終結後の日本の学校教育とは、一味違う判断力が児島にはあった。それを受け入れた大山も、世界の状況から汲み取る力をそなえる同時代人だった。
 「犀のように歩め」。瀬戸内寂聴の「釈迦」(新潮社)で久しぶりにこの言葉に出会った。前にも、会ったことがある。釈迦が実在の人だったことは疑いないが、彼が何と言ったかは、きわめにくい。しかし、今に語り語り伝えられる「犀のように歩め」は、本当に彼が言ったことのように思える。
 中国には犀はいないし、日本にもいない。しかし釈迦のいた頃のインドには、一角犀がたくさんいて、人に知られていた。鼻先の一本の角は、中に骨はなく、一生成長をつづける。「性質は遅鈍で、視力がきわめて弱いが、嗅覚と聴覚は鋭い」と百科事典にある。
昔読んだインド人アナンダ・クムラズワミの仏陀伝では、「汝自身に対して灯火となれ」と釈迦は説いている。自分自身が灯火となって、自分の行く道を照らすように、と言う。これは自分の角をしるべとして一人歩む犀の姿を思わせる。
 明治に入って国家が西欧文明を学校制度を通して日本中に広げてから、思想はかえって平たくなった。この環境では犀をみつけることはさらにむずかしい。編集者は犀を見つけることが仕事のはずだが、実際にはその仕事の内実は、うわさの運搬である。
 司馬遷は早くから千里の馬はいつの時代にもいるけれども、それぞれの時代に目利きが少ないと嘆いた。千里を行く馬は速いが、犀はのろい。しかし千里を行くという点で、両者は共通である。
 
鶴見俊輔(つるみしゅんすけ)
1922年、東京生まれ。哲学者、評論家。ハーバード大学哲学科卒業。丸山眞男・都留重人・渡辺慧・鶴見和子・武谷三男・武田清子らと「思想の科学」を刊行。「戦時期日本の精神史」で大佛次郎賞。「夢野久作」で日本推理作家協会賞。1994年に朝日賞、2007年に「鶴見俊輔書評集成」(全3巻)で毎日書評賞。