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インタビュー

パッケージの理想は受け・取りの一体化

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 ふと、人の潜在する能力について考えてみる。パッケージについて考えていると、ついつい"パッシブ"か"アクティブ"か、などと目先が細っている。まずはパッケージではなく、すべては自身から始まるのである。その意味で、パッケージは自身を映す鏡なのかもしれない。
 「脳」のことはよく聞かれるが、果して一生の内で潜在する能力のどれほど使うのだろうか。ほとんど眠らせたまま、使わずに一生終えるのかもしれない。それだけに興味は湧かないだろうか。かつて縁あって出会った一人の米国人に、こう言われたことがある。
 「誰の可能性も無限大なのに、自分で勝手に能力を決めているのよ」と。つまり自分で推し量った能力しか使っていないということだ。不思議な話しのようだが、これが真実であろう。今回は、武道家の内田樹氏とヨーガ行者の成瀬雅春氏との対談集「身体で考える。」(マキノ出版)のほんの一部を紹介したい。 
 その内田氏が対談の中で、長年の教壇に立った経験を基に「伸びる子どもというのは、自分で自分の限界を作らないんです。伸びる、伸びないの違いには、もともとの学力や才能はあまり関係ないんです」と言っている。さて、あなたはどちらかな。もちろん年齢・性別・人種も関係ないはずである。
 
     *     *
 
内田)これは分子生物学の福岡伸一先生の本を読んで、教えてもらったことなんですけれど、運動の精度というのは、実は自由な粒子の数で決まるらしいんです。「平方根の法則」というのがあって、物体を構成する粒子数の平方根に当たる数の粒子だけはほかと違って、ランダムに運動する。
 ですから、例えば自由な粒子が100個あると、100平方根である10個の粒子はほかの粒子と違う動きをする。90個の粒子が上昇するときに、10個の粒子だけは下降する。10パーセントの粒子だけがつねに全体と違う動きをする。これを運動誤差と考えると、ある動作をしようとしたときに、10回に1回はやろうとしたことと違うことをしてしまう。
 粒子の数が1万個だと、平方根は100だから、1万分の100。1パーセントの粒子が標準から外れる。運動誤差は100回に1回、10分の1にへる。それを見て、「平方根の法則」を武道の運動精度に置き換えて考えることはできないだろうか、と僕は思ったんです。
 つまり、システムを構成していて自由に動く粒子の数がふえればふえるほど、そのシステム内ででたらめな動きをする粒子のパーセンテージはへる。だから、運動の精度は上がる。そう考えると、身体運動の精度というのは、どれだけ緻密に筋肉や関節をコントロールするかではなく、逆にどれくらいの粒子数が自由に動いているかによって決まることになる。
システム内で自由に動く粒子の数が多ければ多いほど、つまり、分母が大きいほど、運動の斉一性を攪乱する要素は少なくなる。そういう仮説が成り立つんじゃないかと思ったんです。この仮説は経験的な身体感覚とは符合するんです。
 どんな身体操作でも、精度の高い動きをしようと思ったら、「リラックスしろ」と言いますよね。針の穴に糸を通すとか、薄刃で刺身を切るとかいうときに、身体がこわばっていたら、まずうまくいかない。体術の場合でも同じで、精密な運動をしようと思ったら、リラックスして、身体の自由度を上げたほうがいい。
 どこにもこわがりや詰りがないほうが、運動精度は上がる。それは要するに「自由に運動している粒子の絶対数をふやす」ということじゃないか、そういうふうに考えたんです。それまでは、だいたい誰でもわかると思うんですけれど、もう一歩踏み込んで、どうして「形稽古」というものがあるのか、というのもその仮説で説明できるんじゃないかと思ったんです。
自分の身体の自由粒子の数はリラックスすればふやせる。でも、体術の場合だと、目の前にもう一個生物体があるんじゃないですか。受けの人が。受けの人をリラックスさせて、その人の身体の自由粒子のパーセンテージを上げて、この1人が一体的に動けば、つまり、分子数が2倍の身体として動くなら、理論的には分母は2倍にまでふやせるはずでしょう。
 稽古で運動精度を上げようと思ったら、1人でするよりも2人でしたほうがいい。それも相手が恐怖心や緊張感で硬直してしまっているより、のびのびとリラックスして、どこにもこわばりや詰りがないほうが、2人で行う形の精度は向上する。それは、経済的には間違いないことなんです。
 だから、体術で精度の高い動きをしようと思ったら、どうやって相手の心身をリラックスさせるか、それを考えればよい、と。これ、かなり「コロンブスの卵」的な発見です。でも、ほんとうに「そう言われれば、そうだよ」ということなんです。だって、形稽古では、相手が恐怖心や焦燥感で硬直していたら、まるで技がかからないんです。
 もちろん、ガチガチに固まっている相手なら、そのまま殴りつければいいとか、ズバッと斬ってしまえばいいという言い方もできるけれど、それでは術の稽古にはならない。緻密な身体操作をしようと思ったら、受け・取りが一体化する。かつそれぞれがじゅうぶんにリラックスしている。そうすれば、理論的には、1人では決して達成できないレベルの運動精度が実現できる。
 
成瀬)まさにそうだと思います。ヨーガ自体は一人でするものだけれど、実はレベルを上げていくためには、2人、3人とかで組んでしたほうがいいんですよ。たとえば研修のときには、必ず3人で組んでやってもらうようにしています。1人がやっているところをほかの2人が見て、動きを評価したりする。
身体の動きを学ぶうえで、人の動きを見るのは大事なんです。自分がやっているときには、自分の背中の状態はわからない。だけれども、人がやっているところを見ると、「俺もこういう状態なのかな」とわかってくる。だから、人を見るのはものすごく重要です。
 
内田)やっぱりそうですか。強弱勝敗を論ぜずというのは、相手を「倒そう」という相対的な気持ちでいると、当り前ですが、「相手はできるだけ弱いほうがいい」ということになる。自分が強いのと、相手が弱いのでは、勝敗強弱という相対的関係だけでとらえたら、同じことですから。
 でも、「弱い相手」というのは、要するにガチガチにこわばって、恐怖や焦燥で居着いて、身動きできなくなっている人間のことなんです。だから、勝敗を競うと、どうやって相手を居着かせるか、どうやって相手をリラックスさせないか、という方向に工夫が向かってしまう。試合に勝つことを目的にすると、相手の能力をいかにして下げるかということが稽古目標の一つになり、いつか、それが全部になってしまう。
 確かに生き死にの修羅場では、そういう状況に行き当たることはありえますし、奇声を発したり、にらみつけたりすることが試合では有効だということもあるでしょうけれど、それは他人の身体能力を下げる訓練ではあっても、自分の身体能力を高める訓練とは言えないと僕は思います。むしろ、強弱勝敗にこだわればこだわるほど、運動精度は下がるんじゃないかと僕は思っているんです。
 武道には、「見取り稽古」というものがあります。下手に一人でドタバタ稽古するよりも、うまい人の動きを黙って坐って見ているほうがずっと効果的なんです。初心者は、「自分が動かないで稽古になるはずがない」と思いますが、そういうものじゃないんです。
 動かなくても、見ているだけで非常にいい稽古になる。他人の動きを見ているとき、脳内では、「ミラーニュートロン」という神経細胞が発火しているそうです。他人と同じ動作を脳はシミュレートとしている。筋肉への出力回路は遮断されているので、動きには繋がらない。
 でも、脳内では運動の「下絵」は描かれている。だから、このミラーニュートロンをもう一度発火させて、出力回路に繋げば、理論的には、達人の動きをそのまま再現できる。あくまで理論的には、ですけれど。でも、確かにじっと座って、頭のなかで、くり返し、くり返し理想的な動きを想像的にトレースしているというのは、ほんとうにいい稽古になるんです。

成瀬雅春:ヨーガ行者で指導者。成瀬ヨーガグループの主宰。倍音声明協会の会長。修行名はアーカーシャ・ギリ(虚空行者)。
内田樹:日本の思想家で武道家。神戸女学院大学名誉教授。