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インタビュー

呼応するなかで増幅してゆくものとは?

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 「この時季になると思い出す」といわなくとも、ありありと当時の感覚が蘇る人は少なくないだろう。あれから3年、本誌などは編集場所も変れど、一つひとつの作業とともに詳細に情景が思い出される。心には時とともに変わりゆくものと、変わらないものがあるようだ。
 先月(2月)に終幕した「冬季ソチオリンピック」を眠い目を擦りながら、感動して観ていた人は少なくないに違いない。その感動をこんなふうに語ってくれた人がいた。「あの『3・11』で見せた日本人らしい尊厳の輝きが、競技の勝敗を越えて再び世界から称賛されたように思います」というものである。
 もちろん日本人だけではない。また日本人の特性といったものがあるにしても、人種や性別、年齢の別なく誰もが秘める人としての尊厳を、代表として示したということであろう。「打てば響く」というが、打つ人がいて響く人がいて、その呼応するなかで増幅されていくものがある。
 読書もしかりで、今号は司馬遼太郎氏の不朽の名著「街道をゆく」(朝日新聞出版)を紹介したい。ご存知のように全43巻で、かじり読みをした人は多いと思うが、果たして全完読となればどうだろうか。ここに紹介するのも、ようやく本誌にもゴールが見えた(40巻目)からである。
 ただ紹介する部分は、その少し手前の「オランダ紀行」の冒頭である。この"当時"というか、この"文章"にも日本人らしさといったものが横溢している。「福沢青年がアメリカの機械文明に腰を抜かさずにすんだのは、杉田玄白以来の無数の先人たちの労のたまものだったのである。むろんその淵源がオランダ国にあることはいうまでもない」と司馬氏は記す。ここにも呼応の増幅があることはいうまでもない。
 
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 勝海舟や福沢諭吉といったチョンマゲのサムライたちが、オランダ製の咸臨丸を操って太平洋をわたり、アメリカ西海岸にたどりつくのは安政7(1860)年の春のことである。
だしぬけなことをいうようだが、T・A・エジソンが実用的な炭素線電球を発明(1879年)して世界中の夜を明るくするのは、咸臨丸の渡米よりも19年のちのことで、まだ電灯の時代はきていない。「電信はある」と、福沢諭吉はその自伝「福翁自伝」の中でいう。
ついでながら、電気の利用の歴史では、弱電の登場の方が早かった。だから咸臨丸渡米のころは、電信が全米の有力な情報手段になっていた。福沢たちは、アメリカ人たちにあちこちをひっぱりまわされて、文明の設備を見学させられた。
 電信機についての見学もその一つだった。アメリカ人にすれば、異星人のような極東の日本人にみせることで、これが文明だ、と教えたかったのだろう。「こっちはチャンと知っている。これはテレグラフだ」(「福翁自伝」)と福沢は内心おもしろかったらしい。
 Telegraphは、福沢が最初にならった語学であるオランダ語でも、telegraafである。福沢の場合、大阪の緒方洪庵の塾生時代にそれらの原理を知ったが、同行した他の日本人たちも、概念ぐらいは知っていたろう。
 電信についてもう少しふれると、福沢より24も歳上の信州松代藩佐久間象山が、オランダの書物「理学原始第2版」を読んで電信機をつくっているのである。もちろん、オランダ人のたすけはない。オランダ人たちは長崎の商館にいて、一般の日本人と接することを原則として禁じられている時代である。
 象山の試作した電信機は、いわゆるモールス電信機が発明されてからわずか十年後の1847年のことで、まことに早い。また、日本の開国のもとをつくったアメリカの提督ペリーが将軍にモールス電信機を贈ったが、象山電信機はそれよりも6年早かった。
 ともかくもそれらはすべてオランダの書物のおかげだった、ということを、私はここで言おうとしている。福沢らは、メッキ工場も見せられた。メッキなら、飛鳥時代から日本にはある。
 青銅の仏像に金メッキを施したわけだし、江戸時代、銀メッキのことを"銀流し"といい、人物評にこれをつかって、"あいつは銀流しだ"といえば、まやかしもの、すぐ剝げるにせものという意味だった。だから福沢らはメッキにはおどろかなった。
 ただ、日本のメッキ法とはだいぶ違う。日本のメッキ法は、金メッキの場合、あらかじめ金を溶かしこんだ水銀を青銅仏に塗り、そのあと熱を加えて水銀を蒸発させ、金の被膜だけを残すというやり方である。福沢たちが見せられたのは電気メッキであるらしかった。
 福沢は、そのこともオランダ語の本で知っていた。「これがガルヴァニの力で、こういうことをしているのだ」と、福沢は「自伝」の中でいう。もっとも江戸末期の福沢青年よりも進んだ世にいるはずの私の方が、ガルヴァニとはなんのことだかわからない。
 あれこれの本をひっくり返して調べてみると、ガルヴァニ(Galvani)とは、1737~98年、イタリアの生理学者にして解剖学者とある。生物学にあかるい人なら、周知の名なのだろう。電気が発見されてゆく黎明期の人でもあったらしい。
 ある日、ガルヴァーニが蛙の解剖をしていて、試みに起電気をそばに置き、電流を入れてみたところ、蛙の足がけいれんした。さらに実験をかさねて、これらの現象が動物電気の存在によるものだということを知ったという。
 そのあと彼(ガルヴァーニ)は、電気に関心を向け、異種の金属を接触させると電気が起こることも発見し、以後"ガルヴァーニ電気"と呼ばれるようになったそうだが、福沢は、オランダ語の物理学の本を通じてこれらのことを知っていたのである。
 それどころか、「ガルヴァニの力でこういうことをしているのだ」と、隣りのおやじであるかのように心安げにいう。あるいはガルヴァーニという人名を"電気の代名詞として使ってもいる。またかれらは砂糖の製造工場に案内された。
 そこでは大きな釡を真空にすることによって沸騰を早めており、工場の技師がその原理をくどくどと説いたが、福沢はおどろかなかった。「こっちは知っている。真空にすれば沸騰が早くなるということは。かつその砂糖を清浄するには骨炭でこせば清浄になるということもチャンと知っている」(「自伝」)ということであったらしい。
 くり返すが、すべてオランダ語の本のおかげである。むろん当時の日本人の知識は、主として書物の上だけのことである。福沢には真空の概念はあっても、実際に装置としてそれを見たのは初めてだったのではないか。
 要するに、福沢たちは、アメリカ文明を動かしている物理・化学的な機械諸現象を実見することははじめてであっても、その原理はとっくに知っていたのである。これは、艦長代理の勝海舟においてもそうだったし、艦長の木村摂津守においても、おそらくそうだっただろう。
 出島の商館のオランダ人は、わずかな人数だった。商館長として、甲必丹(カピタン)がいた。ついで、次席館員、医官、簿記役などがいたほか、大工や鍛冶、バター造りの職人などがいて、あわせて常時数人にすぎなかった。この閉じ込められた十数人が-----ちょっと考えられないことだが-----江戸期の日本文化に重要な影響を与えたのである。
 この影響は、日本人の側から積極的にならねば成立しない。なにぶん、出島のオランダ人に会えるのは原則として特定の役人だけだから、一般の日本人にとってオランダの学問にふれうるのは書物を通じてのことだった。それでもなおオランダを学ぼうとし、わずかながらその言語を獲得する者が出てきた。そのことが、江戸中期、商品経済の影響で成立しつつあった合理的な考え方をいっそうに加速させた。

司馬遼太郎:1923年8月大阪市生まれ、産経新聞社の記者を経て小説家となった。本名は福田定一で、ペンネームは中国の歴史家・司馬遷にあやかる。書著には小説「竜馬がゆく」「坂の上の雲」など多くがあり、エッセイの「街道をゆく」は代表作の一つである。1996年2月に逝去。