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インタビュー

夢に生きる人の原点にある包装

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 NHK連続テレビ小説「マッサン」が始まった。日本のウイスキーの誕生を支えた竹鶴政孝とその妻リタをモデルとしたストーリーである。だが、主人公となる亀山政春の名前から、あえてタイトルを「マッサン」としたのには意味がある。
 天邪鬼な本誌などには「なぜ今、竹鶴政孝なのか?」といった疑問がすぐに湧いてくる。確かに、2014年がニッカウヰスキー創業80周年、竹鶴政孝氏の生誕から120年にあたる節目である。それを記念した商品(「竹鶴ハイボール」「リタハイボール」)など発売されるようだが、そんなことではあるまい。
 作・脚本を担当した羽原大介氏は、「外国ヒロインもの」の内容をどう描けばよいのか、だいぶ呻吟したようである。「『国際結婚』と『国産ウイスキー』、時代を間違え、少し早く生まれ過ぎてしまった感のある2人」との話の筋を示している。
 たとえば2020年の「東京オリンピック・パラリンピック」開催を控え、いずれも"新時代の開幕"を告げるものである。「ウイスキー」は当時の象徴といえるが、今にいいかえれば「モノづくり」「需要創出」ともいえる。苦悶の末に羽原氏の心に蘇った、師(つかこうへい)の言葉が主題であろう。
 それは、「『国とは女のことだ。お前の美しさのことだ。明日とは、男と女が額に汗して夢見る熱いまなざしのことだ』」である。いかにも普遍的ではないか。これにちなんだわけではないが、今回は誰もが知るサントリーの創業者・鳥井信治郎氏を描いた小説「鳥井信治郎伝 美酒一代」(新潮文庫)の一部を紹介したい。
 こんなエピソードがつづられている。グリコの元副社長の吉武武氏が欧米旅行に出かけるとき、鳥井氏は「吉武はん、お土産たのんまっせ。外国のタバコを色々買うて来ておくれやす。中身はいりまへん」と言ったそうだ。これは、まさに包装人の言葉である。「パッケージだけ持ち帰ってくれ」というのだ。
 
 * * *
 
 鳥井信治郎は広告について、はっきりとした好みと意見を持っていた。のちに彼は井上木它という画家をグラフィック・デザイナーとして採用したが、それまでは、毎年の正月に得意先へ配るカレンダーをつくるにも、自分で額縁屋へいって、泰西名画の風景を選んで、それを印刷に回していた。
 彼は自分の美意識をちゃんと持っていて、それに合わないものは認めなかった。井上木它は大阪の俳人青木月斗と組んで、俳画を書いていたが、寿屋へ入社してのちは、カレンダーの風景画は、この人が選んで、気に入らないところは補筆して使っていた。
 しかし、そういう時でも、鳥井信治郎は好き嫌いの注文をどしどし出した。井上木它が一月、二月、三月ごろのカレンダーに、枯れ葉の残った古木や、雪の積もった老木や、葉のない大木などの絵を使おうとすると、信治郎は「一月は枯木、二月は枯木、三月も枯木で、四月になってようやく花が咲くか...」。
 歌の文句のように、何度も繰り返して言ってから、「正月には昇る太陽、二月には寒紅梅、三月には山桜...こうはいかんものやろか」と注文を付けた。
 鳥井信治郎はアイデア・マンであった。当初は「赤玉ポートワイン」が一番成績がよく、これ一つで経営の基盤が固まったが、赤玉一本槍で進んだわけではなく、ほかの企画もいろいろと立てたのであった。たとえば、彼は五色酒というものを考案した。
 これはペパーミント、キュラソー、ジン、チェリーブランデー、ウイスキーなど、赤、白、青、褐色、黄色の五種類の酒を、ラッキョウのような形の瓶に入れて、セットで売るものであった。
 それぞれ、12345と番号が打ってあり、その順に入れると、比重の関係で、それぞれの色に層をなして重なり、見た目に美しく、おもしろかった。そのほか、彼はウイスキー、ブランデーなど、いろいろの酒を売り出した。
 「赤玉ポートワイン」の売れ行きが伸びるにつれて、偽物が出て来るようになった。赤い丸の両側に、小さな丸が切れ込んだ「分銅印」や、中に小さな白丸を入れた「蛇の目印」などの紛らわしい品が、あちこちに出回るようになった。
 赤玉は満州にも相当進出した。これは安東の税関を通じて南満一帯に売られるのであった、これらにはとくに「赤玉牌葡萄酒」と、全部漢字のラベルを貼っていた。それは、中国人に読みやすいようにというより、英国人の税関長に読めないようにという配慮からであった。
 つまり「ポートワイン」と書けば洋酒ということが一目瞭然で、高い税金を課せられたが、漢字の羅列で、薬品と判断されると、低い税率ですんだ。ところが、ある業界新聞の記者が、大連で「赤玉ポートワイン」と書いたラベルのブドウ酒を発見した。
「おかしいな。赤玉は満州では、ポートワインという字を使わないはずだが...」偽物ではないかと直感した記者は、大阪の本社へ速報した。ただちに社員が大連へ急行して調べたところ、やはり偽物で、四ダース入りが百箱も満鉄の消費組合へ納められていた。
 宣伝に対する鳥井信治郎の熱意は、人並みを超えていた。彼は毎日、毎日、読売はもちろん、地方新聞を合わせて三十紙くらいは必ず目を通し、とくに広告面に目を光らせた。彼の出す広告は単位が大きくて、1ページ広告をのべつに出した。
 彼の広告の出し方は、むしろ投機的感覚でやっているようにさえ見えた。広告を出せばかならずその結果のあらわれて来ることを信じ、事実効果を上げていたが、その時期、地域の敏速な決定ぶりなど、まったく名人芸といっていいほどであった。
 また、蜂印葡萄酒に対する競争意識もはげしくて、蜂の広告が新聞に出ると、その月の広告掲載予定日がすでに決まっているのに、どうしてもそれが待ち切れず、「ようし、一発いてこまそ」と、臨時に広告を出すことも、珍しくなかった。
 そして、たまたま蜂のポスターが手に入ったりすると、彼はそれを鷲づかみにして、宣伝部にやって来て、画鋲で壁に貼りつけて、「みごとな出来ばえや。敵ながら、実にええなあ」と、賞賛を惜しまなかった。鳥井信治郎は宣伝のためにはあらゆる手段を用いた。
 明治43年の初夏のある夕方、安堂寺橋通の寿屋の前に、赤と黒で「赤玉ポートワイン」と書いた高さ五尺ばかりの角行灯が30個ばかり、ずらりと並んだ。やがてそれぞれに火が灯ると、寿屋と白く染め抜いたハッピを着た若者が、一つずつ背負って、夕涼みに賑わう町へ繰り出した。
 その後、この方法は映画や興業物の宣伝にしばしば用いられたが、はじめは目新しくて呼び物になった。映画が盛んになる前は、芸者が人気の中心であった。鳥井信治郎が広告の媒体として、これに目をつけないはずがない。
 正月のうち、芸者がおちょぼのわきに稲穂のかんざしを垂らすのは、古くからの習慣であるが、彼はよく実が入った稲穂のかんざしをこしらえ、根元に小さな白鳩をつけると、石清水八幡宮で祈祷してもらって、赤玉にちなんで、赤い玉を鳩の目に入れ、暮れのうちに検番やお茶屋に配って、正月髪に挿させた。
 芸者たちの間では、月のさわりのことを日の丸という隠語で呼ぶ習慣があった。鳥井信治郎はあるときふと思いつくと、姐さん株を呼び集めて、祝儀をはずむと、以後赤玉と呼びならわすように頼んだ。風変わりなこの隠語は、たちまち南を風靡し、北にも、堀江、新町にもひろまった。
 火事もまた、彼にとって宣伝の機会であった。半鐘の音が聞こえると、彼はいち早く飛び起き、若い社員に弓張提灯を持たせて、現場へ駆けつけ、消火と救助にあたらせた。若者たちのハッピには「赤玉ポートワイン」と染め抜いてあり、提灯にも赤玉の名が書かれていた。
 どこの火事場でも、赤玉の提灯が一番早く駆けつけるので、評判になった。鳥井信治郎は現場に提灯を残したまま、近所をぐるりと一回りして、酒屋があると、自分の店の品が入っていなくても、見舞いと激励に顔を出すことを忘れなかったし、類焼した店へは多額の見舞金を贈った。

杉森久英(すぎもりひさひで)◎1912年(明治45年)3月、石川県七尾市生まれ。日本の小説家。東京帝国大学国文科卒業、現在の県立熊谷高等学校の教師となった後、中央公論社編集部に入社。戦後、河出書房に入り「文藝」の編集に従事。短篇小説「猿」で作家となる。伝記小説の分野で活動し、1962年に作家の島田清次郎の伝記小説「天才と狂人の間」で直木賞受賞。1997年1月に逝去。