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インタビュー

心から出て心に入る-----繰り返しの型の中に心が宿る

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 「秋の日は釣瓶(つるべ)落とし」といわれるが、秋の日はあっという間に日が暮れるという意である。同じくようやく木々の葉が色づきはじめたかと思うと、すぐに年の瀬を迎え"あっという間"に1年が暮れてゆくのである。まだ終わってはいないが、それにつけても色々なことが起こる1年であった。
 (善くも悪くも)どれもこれもが看過できないものばかりである。突然に降って湧いたことのように見えて、根は深く1つであるように思われる。比喩的に表すれば「パンドラの箱を開けた」というよりも、「箱が許容量を超えて開いた」というものであろう。
 ある作家が小説を書こうと思った理由に、幼少のころの戦前と戦後の人心の変容ぶりに失望した経験を挙げていた。歴史に人物を求め、そこで出会ったのが内村鑑三氏の著書「代表的日本人」であったという。以来、そこに描かれた代表的日本人(西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮)を1人ひとり小説にしてきたというものだった。
 われわれもまたどこまでさかのぼるかは別として、(誇りにできる)善き日本人の根(魂)を探らなければ、未来に希望を見出せなくなるのではなかろか。「足下を掘れ、そこに泉あり」で、枯渇しそうな心の泉を再び満たすには足下を掘ることである。
 また、それは自身の目よりも他人の目であり、日本人の目よりも海外の人の目の方がよく見えることかもしれない。その意味でも、年々に海外から日本を訪れる人が増えていることも、2020年には「東京オリンピック」が開催されることも重要なことである。
 そうした海外の人たちの目を通じ、あらめて日本を学ぼうとする真摯な姿勢とともに、そこに誇りを見出し身に体現した行動が何よりも必要である。今回は、少々いつもと毛色の違う体験談である。ドイツの哲学者のオイゲン・ヘリゲル氏が講演した内容をまとめた柴田治三郎訳の「日本の弓術」(岩波文庫)からその一部を紹介したい。
 
 * * *
 
 先生は私たちに、これまで稽古したことをただ繰り返すように勧めた。私はさっそく、的に中てるには弓をどう持てばいいのかを尋ねたことは言うまでもない。「的はどうでも構わないから、これまでと同様に射なさい」と先生は答えられた。
 私は中てるとなればどうしても狙わないわけにはいかないと返した。すると先生は声をはげまして「いや、その狙うということがいけない。的のことも、中てることも、その他どんなことも考えてはならない。弓を引いて、矢が離れるまで待っていなさい。他のことはすべて成るがままにしておくのです」と答えられた。
 そう言って先生は弓を執り、引き絞って射放した。矢は的のまん中にとまっていた。それから先生は私に向かって言われた。
 「私のやり方をよく視ていましたか。仏陀が瞑想にふけっている絵にあるように、私が目をほとんど閉じていたのを、あなたは見ましたか。私は的が次第にぼやけて見えるほど目を閉じる。すると的から私の方へ近づいて来るように思われる。
 そうして、それは私と一体となる。これは心を深く凝らさなければ達せられないことである。的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になることを意味する。そして私が仏陀と一体となれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心に在ることになる。
 矢が中心に在る-----これをわれわれの目覚めた意識をもって解釈すれば、矢は中心から出て中心に入るのである。それゆえあなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなたがあなた自身と仏陀とを同時に射中てます」。
 私は先生の言われた通りにやってみようと試みた。しかし言われたことの幾分かしかできなかった。的をまったく視野から去ること、したがって狙いを定めるのを諦めるということは、私にはどうしてもできなかった。それにもかかわらず私の矢はあらぬ方向へと飛んで行き、的には一向に中たらなかった。
 それが私には悲しかった。以前小銃や拳銃の射撃をやったことがあるので、やはり「命中弾」を数える癖がついていたのではないか。それがおそらく自分でも気づかずに、私のうちに残ってはたらいていたのであろう。いくら熱心に稽古をしても、悲しいことには的に中らなかった。先生は私が焦るのを難じた。
 「中てようと気を揉んではいけない。それでは精神的に射ることを、いつまで経っても学ぶことができない。あれこれ試してみて、なるべく多数の矢が少なくとも的の枠の中に来るようにする弓の持ち方を考え出すのはたやすいことである。あなたがもしそんな技巧家になるつもりなら、私というこの精神的な弓術の先生は、実際に必要がなくなるでしょう」。先生はこう言って私を戒めた。
 事実私は技巧家になろうなどとは本当に思ってみなかった。それで中てるという目的に適った弓の持ち方を考え出そうとすることは止めにした。けれども精神的な意味の射手にもならなかった。これほど熱心な骨折りもついに実を結ばずに終わるということが、私の心を重くするようになった。
 それでは最後の一歩手前で、どうしても諦めなければならないのであろうか。もちろんは私は、十年二十年と弓術を習っていて、しかも依然として弟子から上がれずにいる人が少なくないことを知ってはいた。しかし私の日本滞在には限りがあった。
 永い先を見てみずから慰めるということは、私には許されなかった。そこである日先生を訪れて、自分にはこの狙わずに中てるということが理解も納得もできないわけを申し述べた。先生はまず私を宥めようとした。しかし自分にはできないという意識が、私の心に深く食い込んでいたので、私たちの話しはなかなかうまく進まなかった。すると先生はついに、私の行き悩みは単に不信のせいだと明言した。
 「的を狙わずに射中てることができるということを、あなたは承服しようとしない。それならばあなたを助け先へ進ませるには、最後の手段があるだけである。それはあまり使いたくない手ではあるが」-----そして先生は私に、その夜あらためて訪問するようにと言われた。
 9時ごろ私は先生の家へ伺った。私は先生のところへ通された。先生は私を招じて腰かけさせたまま、顧みなかった。しばらくしてから先生は立ち上がり、ついて来るように目配せした。私たちは先生の家の横にある広い道場に入った。先生は編針のように細長い1本の蚊取線香に火をともして、それをあづちの中ほどにある的の前の砂に立てた。
 それから私たちは射る場所へ来た。先生は光をまともに受けて立っているので、まばゆいほど明るく見える。しかし的はまっ暗なところにあり、蚊取線香の微かに光る一点は非常に小さいので、なかなかそのありかが分からないくらいである。
 先生は先刻から一語も発せずに、自分の弓と2本の矢を執った。第1の矢が射られた。発止という音で、命中したことが分った。第2の矢も音を立てて打ちこまれた。先生は私を促して、射られた2本の矢をあらためさせた。第1の矢はみごと的のまん中に立ち、第2の矢は第1の矢の筈に中ってそれを2つに割いていた。
 私はそれを元の場所へ持って来た。先生はそれを見て考えこんでいたが、やがて次のように言われた。
 「私はこの道場で30年も稽古をしていて暗い時でも的がどの辺にあるかは分かっているはずだから、1本目の矢が的のまん中に中ったのはさほど見事な出来ばえでもないと、あなたは考えられるであろう。それだけならばいかにももっともかも知れない。しかし2本目の矢はどう見られるか。これは私から出たのでもなければ、私が中てたものでもない。そこで、こんな暗さで一体狙うことができるものか、よく考えてごらんなさい。それでもまだあなたは、狙わずには中てられぬと言い張れるか。まぁ私たちは、的の前では仏陀の前に頭を下げる時と同じ気持ちになろうではありませんか」

オイゲン・ヘリゲル◎
1884年3月生まれのドイツの哲学者。1924年に東北帝国大学に招かれて講師として哲学を教える。その間、日本文化の真髄を理解するため、妻に日本画と生け花を習わせて、ともに阿波研造を師として弓術の修行に励む。帰国後(1936年)、その弓術修業の体験をもとに「Die ritterliche Kunst des Bogenschiessens(騎士的な弓術)」と題し講演をする。1941年に講演内容が柴田治三郎訳「日本の弓術」(岩波文庫)にまとめられる。1948年にはそれをヘリゲル自身で書き改め「Zen in der Kunst des Bogenschiessens(弓と禅)」を出版。ナチス政権下でエアランゲン大学の教授となり、大学人として成功したが、晩年は苦難の日々を過ごす。1955年4月に逝去。