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インタビュー

デモーニッシュをあわせ持つ“生ける包装”

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 穏やかな新年を迎えふっと、年末の大掃除の効果といったものを考えてみた。人によっては考えの違いもあろうが、大方は日頃手の届かないところを重点的に大掃除でやるのではないだろうか。「日頃手の届かない」とはいったが、正確には「日頃目の届かない(見えにくい)」ところである。
 「見えにくい」もしくは「見えない」ところであっても、何かしら気に掛り「やらねば」と思いつつも、ついつい見過ごしてきたわけだ。哲学的にいえば"本質的"ではなく、"偶有的"なところである。何か家具などを移動し、あるいは蓋を取らなければ掃除できないといった場所である。
 そうした場所は、往々にして大掃除などでも据え置かれがちとなる。それは単に時間や手間の問題ではなく、その場所と向き合い腹を据えて清掃を断行する覚悟が必要である。「いざ!」やろうとしたとき、その移動もしくは蓋を取ろうとして、(見えないだけに)おびただしい汚れを想像した経験は誰にもあろう。
 それが想像以上のこともあれば、幸いにも杞憂に終わることもある。ただ、その掃除を終えたあとの清々しさは言葉に尽くしがたい。「トイレには、それはそれはきれいな女神様がいるんやで!」と、その清掃を推奨したおばあちゃんの気持ちは分かる。ある意味で真実である。
 再び哲学的に考えてみると、心身の内なる世界は外界と共有しており、環境を清掃し整えることは、そのまま心身を浄め整えることに通じる。とくに暗部の掃除には、心の奥の奥に押し込めたものと向き合い、蓋をあけて光で照らす意があるように思える。
 今回も、偶有性により司馬遼太郎氏を偲ぶ著名な文化人による文集「司馬遼太郎の跫音」(中央文庫)を選んでしまった。そこに収められた司馬氏と言語学者の井筒俊彦氏との対談の一部を紹介する。
 まさしく"心の奥の奥"を照らす話で少々むずかしい面もあろうが、是非ともこの先は自力で読んでほしい。井筒氏は「ただ一挙に払い捨ててしまわないで、まずどろどろの構造そのものを観察し、分析していくんです」という。それが清掃の本質というものではなかろうか。
 
 * * *
 
司馬)世界には国が百五十ほどあるそうで、一方民族は数え方によると六百ほどになるそうですね。それをひとつの国々に収めるわけにもいかない。結局は複合国家が出てきて争いが起る。
 民族というのは、神様が決めたわけでもないし、誰が決めたわけでもないのに、しばしばいちばん憎しみの対象になるのはどうしてだろうということを考えておりました。そんなふうに考えていると、話しがポンと飛びますが、モラヴィアというイタリアの、ちょっとセックスの好きな大変いい作家のことに思い到りました。(笑)
 
井筒)そうですね。おもしろい人です。
 
司馬)モラヴィアはイタリアの雑誌社に頼まれてユングに会いに行きまして、「ユングはこういった」ということを書いているんです。素人が聞いて素人の頭で濾過して書いているものですから、正確であるかどうかはべつにして、非常にシャープでして、たとえば「三位一体は嘘で、悪魔を入れて四位にしなければならない。もしくは、神というものは善のみではない。その半分は悪だ」ということをユングに語らしています。
 
井筒)それは、ユングの得意な説ですね。
 
司馬)モラヴィア記のなかでのユングは、無意識に、「自分は四歳のときに、夢をみた」といいます。また、例によって夢の話になります。ここでついでながら、先生は、ユングというとすこしお笑いになるのがよくわかるんですけれども...(笑)
 
井筒)いやいや、そんなことはありません。
 
司馬)ユングは、牧師館で生まれた子どもです。牧師館の隣に大きな牧場がひろがっている。夢のなかの四、五歳のユングは牧場をうろうろしているうちに、穴を一つ見つけてなかへ入っていく。階段を深く降りていくと、地底に部屋があって、玉座がある。
 そこにあるのは、巨大な幹―触るとあたたかくて、皮膚のようなものである。よくみると、頭のほうはツルンとしていて、一つ目だというんです。四、五歳の子で、男根というイメージが夢に出てくるかどうか、私にはちょっと不思議です。
 もっともモラヴィアにおけるユングは男根とはいっていませんが、われわれが読むと男根らしい。子どものユングは、あまりの恐ろしさに飛び出してきて、夢のなかでお母さんに訴えると、それは人食いなんだとお母さんは、夢のなかでおっしゃる。
 この話は六十何歳になるまで人にいわなかった、ユング自身がいうんです。ユングはのちにフロイトに出会って、鮮明に夢の問題とか意識下の問題を考えてゆことになるのですが、四、五歳のときの夢の牧場の地下は、ユングのいう意識下の、深層の無意識の世界であるのかもしれません。
 そこにいた神のようなものは、人食いだというからきっと悪魔だったのでしょう。幼いユングは牧師館という神の家に住んでいます。そのそばの地下に悪魔が住んでいる。「神の裏側は悪魔だ」とユングがいうところの、つまり無意識は悪魔であるという悪魔だったんですね。
 またユングは集合無意識というものがある、といいます。民族、たとえば日本人なりドイツ人なりが、神話やいろいろなものを通じて共有している無意識があるという。つまり元型を共有しているという。それはどろどろしていて、悪であるというわけです。
 ユングはスイス人ですけどよくベルリンにいった。第一次大戦のときに、花飾りをした機関車で、停車場から出ていく兵員輸送の列車に群衆が歓呼の声を上げているのを見たとき、若きユングは悪魔が出ていくと思ったらしいんです。ドイツにはカトリックもいるけれども、ほとんどがプロテスタント世界です。
 カトリックではまだ悪魔の話をしますが、プロテスタントになると、悪魔の話はほとんどなされない。悪魔はひとびとの無意識のなかにもぐりこんでしまったから、それが民族として共有されるときに、荒ぶる。悪魔という無意識が他民族を殺す列車で出ていく。
 熱狂して送り出す側も悪魔を共有している。第二次大戦のヒットラーの出現もユングは民族の無意識のなかの悪魔の荒ぶりとして見ています。ニーチェは、「神は死んだ」といいましたが、モラヴィア記のユングによると、神は死んだあと、本当に地上からいなくなったんではなくて、人々の深層心理のなかに入って共有されて、何かことがあると恐ろしい復讐、嫉妬、暴虐、破壊、殺戮に関与してくるのではないか。
 ただ、われわれ日本人は一神教ではなく、お稲荷さんがあったり、帝釈天があったりの世界ですから、唯一神が同時に悪魔であり、その悪魔は無意識のなかに住んでいて、それが揺り動くと恐ろしいものになるというのは、あんまりピンとこないわけです。こういう背景から民族問題を見るのに、井筒先生を頼ろうというのが、私のきょうの期待です。(笑)
 
井筒)とんでもない。私なんかはぜんぜんだめですよ。ただ、ユングは神にカーニヴォラス(carnivorous:肉食的)という言葉を使っていますね。だから肉食的な恐ろしさを感じていたらしい。
 
司馬)ああ、夢のなかでお母さんが「人食いだよ」といったのは...。

井筒)カーニヴォラスです。ただ、ユングという人はご承知のようにすごいイメージの強い人ですから、どんなイメージが出てくるか、わからないですよね。それが、われわれの考えている無意識の世界の光景でもあるんでしょうね。私は、唯識理論の阿頼耶識を考えるとき、やっぱりそういうことを考えますね。
 阿頼耶識のどん底とうか、西田哲学では「無底」といっていますけれども、「無底の底」というような世界を考えてみると、どろどろした本当のカオス的な世界で、無じゃない。無じゃなくて有なんだけれども、何ひとつものが形をなしていない。
 そういう全体が無定形の言語的意味志向性のみの渦巻く世界で、神がそこに君臨している。だから、無意識のいちばん底に神を押し込めようというユング的な考えも、根拠がないわけではないと思います。 

井筒俊彦(いづつとしひこ)
1914年5月、東京生まれ。文学博士、言語学者、イスラーム学者、日本学士院会。東洋思想研究者旧制青山学院中学で初めてキリスト教に触れる。1931年4月慶應義塾大学経済学部予科に入学。1934年4月に文学部英文科に転入し、1937年に慶應義塾大学文学部英文学科卒業。慶應義塾大学文学部助手、語学研究所研究員兼任の同助教授を経て文学部教授に就任。1981年に慶應義塾大学名誉教授。アラビア語やペルシャ語、サンスクリット語など30以上の言語を修得し、日本で最初の「コーラン」の原典訳を刊行。1993年1月に逝去。