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インタビュー

“心の栓を抜く”ようなパッケージの役割

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 「如実知見」との言葉をご存知だろうか。仏典に表わされた言葉で、端的にいえば「事実を事実としてあるがままに正しく見極めること。正見」との意味である。以前、一世を風靡したディズニーの「アナ雪」の主題歌も(訳もだが)、「ありのままで」であった。
 風評や偏見、先入観や既成の概念によらず、「ありのままで」在りつづけることや、目の前の事実を「あるがままにみる」ことのむずかしさがある。それが身に沁みて感じられるからこそ、誰もが心のどこかで「そうありたい!」と強く思っているのであろう。
 「見ざる聞かざる言わざる」とのことわざを知らない人はいないだろう。人は都合の悪いことや人の欠点を見たり聞いたり言ったりしがちであり、そうした人の性に対する戒めと解される。だが言いかえれば、目や耳や口を閉じてみれば心に映じてくる真実の姿があるということではないだろうか。
 むしろ大事な情報ほど目や耳では捉えられず、心静かに伝わってくるものであろう。かつて都市伝説のように聞いた、猛烈ジャパニーズビジネスマンが南の島を静養で訪れたときに交わす、現地の子どもたちとの皮肉な会話を記憶している人はいるだろうか。
 それは「一体何を目指しての(経済)成長・発展なのか?」を問いかけるものであった。経済だけには限らないが、今回は珍しく、経済学者の吉川洋氏の著書「人口と日本経済」(中公新書)の一部を紹介したい。懸命に「目耳口」をフル回転させて、先のみえない袋小路に入り込んだとき、何をすべきか。
 「目耳口を閉じよ!」といえば叱られそうだが、閉じれば見えてくる、聞こえてくる、口をついて出てくる言葉がある。ミルの理想は袋小路だが、「0%に上げる成長戦略を容認します」とは橘木氏の、東洋の知恵ともいえる"心の栓を抜く"ような言葉である。
 
 * * *
 ケインズの予測に反し、21世紀になっても経済問題は、いっこうに解消される兆しを見せない。しかし、成長をつづけていけば、いつの日か「これ以上は望むべくもないほどに豊かな社会」―ケインズはエッセイのなかでbliss(天国)という言葉を使っている―になるだろう。
 そうすれば経済成長は不要になる。ゼロ成長社会の到来である。ゼロ成長論は、歴史上繰り返し登場する。経済学の世界では、19世紀にジョン・スチュアート・ミル(1806~1873)によって展開された議論が有名だ。ミルは「自由論」などで有名な19世紀イギリスの「知の巨人」である。
 アダム・スミスからリカードまで古典派経済学を集大成した大著「経済学原理」にある「定常状態」(stationary state)と題する章(第4部第6章)がミルの「ゼロ成長」である。経済の成長・発展を論じた章につづくわずか6ページの短い章の冒頭、ミルは、成長・発展といっても、それはいったい何を目指しての成長・発展なのか、と問いかける。
 アダム・スミスをはじめ時代を代表する経済学者たちは皆、経済の成長・発展こそが「豊かさ」の基だと考えてきた。どれほど「水準」が高くてもゼロ成長では豊かさをもたらさない。これが経済学者の考え方だった。しかし、そうした彼らといえども、経済成長が無限につづくと考えるわけにはいかない。
 いつかは、やはりゼロ成長、つまり経済的「定常状態」に落ち着くことにならざるをえない。ミルが他の経済学者と違う点は、この定常状態をネガティブにとらえず、積極的に評価したことだ。そもそも成長、成長というが、そのために人々が生存競争さながら他人を押しのける社会を自分は嫌いだ、とミルは言う。
 ミルの議論は、「現代日本の開花」という講演で夏目漱石が述べた有名な一節をわれわれに思い出させる。
 
 できるだけ労力を節約したいという願望から出て来る種々の発明とか器械力とかいう方面と、できるだけ気ままに勢力を費やしたいという娯楽の方面、是が経となり緯となり千変万化錯綜して現今の様に混乱した開花という不可思議な現象ができるのであります。―中略―
開花というものがいかに進歩しても、案外その開花の賜として吾々の受くる安心の度は微弱なもので、競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変わりなさそうである―(「漱石全集」第11巻)
 
 ここで漱石のいう「開花」は、おおむね「経済」の発展に相当する。経済が発展して人々の暮らしが便利になっても、必ずしも「豊かさ」を実感できないこと、これを漱石は「開花の生んだ一大パラドックス」と呼んだ。その一因は、西洋の開花が「内発的」であるのに対し、日本の開花は「外発的」なところにある。
 
 こういう開花の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐かなければなりません。一言にしていえば現代日本の開花は皮相上滑りの開花であるということに帰着するのである。―中略―しかしそれが悪いからおよしなさいというのではない。事実已む得ない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないというのです。(同前)
 ミルに戻ろう。ミルは自らの理想を次のように述べている。「人間にとって最善の状態は、誰も貧しくなく、さらに豊かになろうとも思わず、豊かになろうとする他人の努力により誰も脅威を感じることがないような状態である。(「経済学原理」著者訳)
 ミルはつづけていう。なるほど貧しい発展途上国では経済成長が必要だろうが、イギリスのような国にとって必要なのは、成長ではなく、より平等な所得配分である。この点に関して、平等な所得配分にとって必要不可欠なのは、厳密に人口を抑制することだ、とミルが述べていることは興味深い。
 自由放任のままに人口が増加すれば、到底平等な所得配分は実現できない。この点では、ミルはマルサスに近い。先進国でも技術進歩があれば、人口が増加しても一人あたりの所得水準を低下させないですむかもしれない。
 そうかもしれないが、たとえ経済的には技術進歩により一定の生活水準を保てても、人口が増えると必然的に「人口密度」が高くなってしまう。これにつづけてミルのいうところは、情報化社会のなかで絶えずケータイ、メールを通じて他人と接触しつづけている現代人の反省を迫るものだ。
 人間にとって、いつも他の人間と接しているのはけっしてよいことではない。孤独というものが不可能であるような社会は、理想の社会ではない。孤独、つまり時としてたった一人になることは、人間が自らの考えや精神を高めるために不可欠なものである。(著者訳)
 
 さらにミルは、経済成長は必然的に自然を改変するが、ありのままの自然を残すことが重要であるという。今日の環境問題を先駆的かつ詩的に指摘している。こうしてミルは、イギリスのような先進国では、ゼロ成長社会はけして「貧しさ」をもたらすものではないと述べた。
 むしろ、ひたすらに成長を求めるよりも、「定常状態」は人々により大きな幸せ(happiness)をもたらす。ミルと同じような「ゼロ成長論」は、今も有力な論議として存在する。
 たとえば、格差問題はじめ日本経済について優れた実証研究を行ってきた経済学者の橘木俊詔は、「経済成長だけが幸福の源泉ではない」、格差解消のほうが重要だという立場から、ミルにも言及しつつ次のように書いている。
 
 ゼロ成長論を現代の日本に即して考えてみましょう。日本人はここ20~30年にわたって少子化を選択しました。これは労働力不足を招き、かつ家計消費需要を低下させるので、負の経済成長率を選択しているのです。
 そこに年率2~3%の成長戦略はムリな話です。しかし、私も負の成長率は生活水準の低下となりますので、それは避けるべきだと思い、0%に上げる成長戦略を容認します。(橘木俊詔「21世紀の資本主義を読み解く」) 

吉川 洋(よしかわ ひろし)
1951年6月、東京生まれ。1974年に東京大学経済学部経済学科を卒業後、米・イェール大学に留学。1978年に博士号を取得。ニューヨーク州立大学経済学部助教授、大阪大学社会経済研究所助教授、東京大学経済学部助教授、同教授を経て、2016年4月から立正大学経済学部教授。経済学者、東京大学名誉教授。2010年に紫綬褒章を受章。