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インタビュー

知性と感性のメンテナンスが生み出す創造

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 とき折りに思い出される、ある小説に描かれた主人公の言葉がある。それは「日常に用をなさないが一旦、火急となれば必要となるのが消化器である」というものである。自らを客観視し、その役割を理解した言葉ではなかろうか。
 ただ「日常には用をなさない」というわけだから、「どんな人も」というわけにはいくまい。これとは少し違った見方とはなるが、作家の隆慶一郎氏が小説「影武者徳川家康」に描いた「徹底した現実家」といった"頼りになる人たち"を彷彿とさせる。
 そこには「危険を危険としてありのままに受け止め、素早くそれに対応する処置をさぐり、それが終わるとまた悠々と酒を飲む」と認められている。自らの能力の限りと役割とを知り、火急の対処をさぐりさえすれば、あとは無用な心配などせず今なすべきことを楽しむというふうである。
 いうまでもなく頼りになるかどうかは日常では見えにくいもので、やはり火急のときの"消化器"となるわけである。あの漫画「テルマエ・ロマエ」の映画化で、一躍有名となったヤマザキマリさんは、こんなおもしろいことを言っている。
 「私にとっての『変人』とは、既成概念にとらわれず、型にはまることもなく、自在に自らの感性と技巧を操る、果てしなく自由な思想を持った人々を指しています。ながらく閉塞感に陥っている今の日本に足りないのが、パワフルな『変人』ではないかと思っているからです」と。
 彼女自身、最も苦境に立たされていたときに、そうした変人(アウトサイダー)の仲間たちが周りにいて支えてもらったようである。今回紹介するのは、ルネサンス時代の"変人たち"について書いた、ヤマザキマリさんのエッセー「偏愛ルネサンス美術論」(集英社新書)の一部である。
 「消化器」といい「徹底した現実家」といい、また「変人」なのかもしれないが、幸いなことに本誌の周りにも多くいて、陰に陽に支えていただいていることに感謝している。それだけに、ヤマザキさんではないが「変人たちの出番が来た!」と声を大にしていいたい。
 
* * *
 
 ルネッサンスを考えるうえで、イスラム世界の存在はとても重要です。古代ギリシャ・ローマの自由な理念は、中世ヨーロッパ世界の内部よりも、その外のイスラム世界に「火種」として残っていました。フェデリーコ2世は彼らからローマ文明の「火種」を受け継ぎ、自分の宮廷のなかで絶やさないようにしたのです。
 その「火種」は、フェデリーコ2世の治世の間には、一気に燃え上がることはありませんでした。しかしのちにその影響のもとでダンテが生まれ、ジェットが生まれ、やがてイタリア・ルネサンスという大輪の花を咲かせたのです。いつの時代にも、そうした「火種」は残っているはずです。
 どういうきっかけがあれば、それが大きく燃えるのか。その火を大きく燃え上がらせる焚きつけになるようなものこそが、文化であり教養なのだと私は思います。古代ローマ文明の崩壊後、ヨーロッパでは彫刻も建造物も絵画も、一気に劣化してしまいました。
 人間とは技能や精神の活性化を怠けていると、これほど稚拙なレベルにまで後退してしまう生き物である―フィレンツェで美術史を学ぶなかで知ったこの事実は、私にとってはとてつもなく恐ろしいことでした。
 中世ヨーロッパの人々が創造的な営みから遠ざかり、精神的には古代ローマ文明以前のレベルまで戻ってしまった後も、「火種」は様々なところに残っていました。
 その一つが修道院であり、もう一つがイスラム世界です。「火種」の存在に気づいた人たちは、「いまの世のなかは、これでいいのだろうか?」という疑問を抱きつつ、その火を絶やさないようにしてきました。
 そのようにして守られてきた知性を生かすための活動を実行する人が少しずつ現れ、お互いに刺激を与え合っていく―ルネサンスとは、とてつもなく長い時間をかけた、その過程のことだと私は考えています。人間は「知性の生き物」です。
 少なくとも何かをつくり出そうとする人にとって、創造的な活動は、ご飯を食べたり、寝たり、生殖活動をするのと同じくらい、生命を維持するうえで不可欠な営みです。自由な精神がいつでも駆動できるようにしておかないと、すぐに動物的・原始的な状態に逆戻りしてしまいます。
 人類の歴史のなかでは、そこからメンテナンス、つまり修復や維持管理が必要となった時期が何度か訪れました。広く幅をとれば13世紀から17世紀までつづいたルネサンスの時代は、人類史上でもっとも大規模な文化のメンテナンスが行われた時期だと思います。
 塩野七生さんは「ルネサンスとは何であったか」という本のなかで、ルネサンスの精神とは日本語でいう「克己」ではないかと書いています。私が考える「メンテナンス」の意味は、塩野さんのいう「克己」と似ていると思います。
 「創造」などという、お腹がたまるわけでもない活動に一生懸命になるなんて、動物としての本性からみれば異常なことかもしれません。でも私は、人間は「創造」という行為を生きるのになくてはならないものとし、それによって人生の彩りを添えようとする特異な生き物だと考えています。
 食事や睡眠が体にとって欠かせないのと同様、精神にとっては芸術や知識が欠かせない―ルネサンスとは、そのことにヨーロッパの多くの人が気づいた歴史的な瞬間だったのだと私は思います。
 知性や教養、芸術的な創造性といったものが、自由な精神に対する抑圧のもとで否定された時代は、中世ヨーロッパだけではありません。フィレンツェでルネサンスが花開いた15世紀でさえ、サヴォナローラによる神権政治の自由を圧殺しました。
 私が生きてきた20世紀後半から21世紀にかけての時代も同様です。たとえば1970年代にカンボジアを支配していた、共産主義革命勢力のポル・ポト派(クメール・ルージュ)は、国民のなかから知識人や学生をわざわざ選別し、殺していきました。
 教育がある者、批判的な知性を持つ者が存在すると、自分たちの権力を脅かすので危険だと考えたからです。政治を思い通りに動かしたい人間にとっては、自分以外の者が知性を持つと邪魔なだけなのでしょう。イスラム教は本来、他宗教に対しても寛容な、きわめて知的な宗教です。
 しかしいまは「イスラム国(ISIS)」と名乗る原理主義者たちが、多神教時代の古代遺跡を、なんの躊躇もなく破壊しています。シリアのダマスカスで暮らしたことがある私には、いまかの地で起きていることが信じられません。
 でもこうして現実をみると、知性や芸術に対する野蛮な感覚は、人類のなかでいつでも復活しうることが分かります。極限状況のもとでは、知識や芸術から受ける刺激なしに、人が動物のように生きざるをえないこともあるでしょう。そう考えると、絶望的な気持ちになります。
 でも、一度でも何かを綺麗だと感じたり、ものごとから知的な刺激を受けて、知識や芸術に対する感受性が花開いてしまえば、人はそれなしでは生きていけなくなる。私はそのことを信じているのです。
 私が「テルマエ・ロマエ」という漫画作品で描いた西暦130年代の古代ローマ、ハドリアヌス帝の時代は、高位の政治家から一介の技師までが、知性と芸術的感性のいずれもを、とことんまで生かしていこうと考え、行動した時代です。
 ハドリアヌス帝の時代を生きた、この漫画の主人公である架空の設計技師ルシウス・モデストゥスや、それよりさらに前のネロ帝の時代を生きた、いま取り組んでいる作品の主人公プリニウスなど、私はいわば「変人」ばかりを漫画に描いてきました。
 いま私は、アップル社の創業者スティーブン・ジョブズの評伝を漫画化していますが、先述したように、この人もとんでもない「変人」です。彼は自分の変人性=「情の激しさと不安定さ」を自覚し、そのことに苦しみつつも、誰に依存することもなく、自分の知性と感性をメンテナンスしつづけた人でした。 

プロフィール◎ヤマザキ マリ
1967年、東京生れ。日本の女性漫画家・随筆家。現在はイタリア共和国在住。幼少期を北海道千歳市で過ごし、14歳のとき、1カ月ドイツとフランスを一人旅した。高校生のときにイタリアに渡り、フィレンツェのイタリア国立フィレンツェ・アカデミア美術学院(Accademia di Belle Arti Firenze)で美術史と油絵を学びながら11年間過ごす。1996年、イタリア暮らしを綴ったエッセー漫画でデビュー。同時期イタリアから一時帰国し、北海道大学と札幌大学でイタリア語の講師を務める。札幌テレビの番組で旅行・温泉のレポーター、ラジオパーソナリティなどを務める。
漫画「テルマエ・ロマエ」を「コミックビーム」に掲載。それが2010年マンガ大賞2010受賞。他にも、2010年第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞、2013年仏アングレーム国際漫画祭ノミネート、2013年米アイズナー賞アジア部門ノミネート。2012年には日本で映画化。