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インタビュー

変革を起こす熱情と仕事を成し遂げる冷静

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 あるとき知人から「毎年、『変革のとき』っていってない?」といわれ、確かに口癖になっているところもあるが、現実と向き合えばそう実感せずにはいられない。その知人も身に迫ることがらもあり、段々と「変革のとき」を実感してきているようである。
 「段取り8分で仕事2分」とは段取り(準備)の大切さを意味する言葉であるが、2分の仕事がなければ完成しないことはいうまでもあるまい。また変革を起こす8分のエネルギーはマイナス(負)の場合が多い。だが、それを成し遂げる2分のエネルギーはプラス(正)でなければならない。
 それは夏にみる、熱い空気の固まりが上空に持ち上がってできる「積乱雲」と、「秋来ぬと/目にはさやかに/見えねども」の和歌に詠まれた秋の「風」の違いと似ている。様々なカタチで起こる「変革のとき」をみるにつけ、それを成し遂げる人たちの存在を願う。
 朝日新聞デジタルには「平成最後の8月6日へ、空を見上げて 被爆73年」との見出しが掲げられていた。また8月6日の「原爆の日」を迎えた。「変革のとき」であれば、何か「例年」とは違った「8月6日」となるに違いない。
 1日早い原爆投下時刻(5日午前8時15分)に、広島中心部にある相生橋上で"空を見上げる"とのイベント(芸術家グループ「プロジェクト・ナウ!」主催)が開催されたようだ。それは「平成最後の8月6日」であり、あの瞬間の空に思いを馳せて見上げたひとりの人の心に起こった「変革」であろうか。
今回は、作家の小堺昭三氏の(坂本竜馬、三野村利左衛門、伊藤博文、村山龍平、後藤新平、野村徳七、加藤建夫、小林一三―岩下清周らの偉人伝)「男の切れ味」(PHP)のなかから、朝日新聞社社主の村山龍平氏について書かれた、その一部を紹介する。
 
* * *
 
 (村山)龍平は嘉永3年(1850年)4月の生まれ。伊勢国田丸の藩士、父親の村山守雄は勘定頭、嘉永3年といえばペリーが浦賀に来航する3年前だ。少年時代の龍平に、1つの忘れられぬ光景がある。大罪人が打ち首の刑になるというので、大人たちに交じり、刑場まで出かけたときのことである。
 後ろで手に縛られて連れて行かれる罪人の周りには、黒山の人垣ができていて、少年の彼にはみえない。強引に掻き分けて最前列へ出ると、無精ひげが伸びている罪人が彼を見つめて、「坊ちゃん、急いでもムダです。私が行かなきゃ打ち首は始まらんのですから」と冷やかな笑みを浮かべた。
 罪人のこの一言が、ぞーっと身の毛のよだつ思いになりかがらも、龍平には生涯忘れられないものとなって耳に残ったのである。死刑にされる、己れ無き運命にありながら、このときの罪人は己れを有している主役なのだ。人間は死の瞬間まで自己主張するものなのだ、ということを少年龍平は、天啓の如く悟ったのだった。
 内乱を経て明治時代になったとき守雄が士籍を返上、断髪したのにならって、龍平が商人を志して大阪へ向かったのは廃藩置県の明治4年、21歳であった。1年間は急変してゆく世情をじっくりと見ていて、翌5年、西区京町堀に「田丸屋」をオープンした。
 文明開化の世相に即応してメリヤス、ラシャなどの洋布類から帽子、手袋、洋傘、眼鏡、装身具、文房具、ビールなどの西洋雑貨食品に至る「舶来諸物品仲買業」を始めたのである。"異人かぶれ"と指をさされながらも、開店1か月目の総売上高が369円(当時)あったというから大当たりだった。
 同じ町内にあるしょう油問屋「泉屋」の主人・木村平八は、西洋雑貨商が儲かることから、龍平にともに「田丸屋」を合併させて「玉泉舎」に改称した。思惑通り「玉泉舎」が繁盛するのは喜ばしい限りだが、同時に龍平にとってこの平八を知ったことが、人生の大きな転機となっていった。
 平八の長男・木村騰に頼まれて龍平が持ち主名義人となり、「朝日新聞」創刊号を明治12年1月25日に発刊したのだ。1部4ページで定価1銭、1か月の定期購読料は18銭、発行部数3,000であった。
 社屋は江戸堀南通りの小さな2階建ての借家、東京で新品の印刷機械や活字を購入、41名の印刷・製版職工も呼び寄せた。題号の「朝日」は「旭日昇天、万象惟明」の義に由ったものであるという。
 のちに「朝日」で健筆を振るうようになった長谷川如是閑は、「明治10年代の政争時代に入ろうとして、新聞が政論中心の大新聞と卑俗の小新聞との両極に分かれてしまう形勢になったとき、その中間の性格をもった新聞として大阪に表れたのが『朝日新聞』だった。そしてその性格が、ついにその後の日本の新聞の性格を決定してしまったのである」と書いている。
 つまり大阪商法でこしらえた新聞が日本人の好みにぴったりしたわけで、発行部数3,000はたちまち倍近くに伸びてゆくが、しかし龍平自身、まさか全国の新聞の大半が「朝日」調の中間型になってしまうとは、まったく予想できなかったことだろう。
 村山龍平が、「朝日」を大発展させえた手腕のもう1つに、文化事業への援助、民間航空界への貢献、社会事業への尽力がある。そのことごとくが「朝日」自体の大宣伝につながる効果となっていったのだった。弱冠21歳で時代に即応する西洋雑貨屋をオープンして以来の、彼一流の勘がはたらくのだろう。
 世人を注目させることにかけての、宣伝マンとしての感覚も抜群で、明治44年、アメリカの飛行家マース氏を招へいして、わが国最初の空中飛行を敢行した。マース招へいに先立ち、龍平が世界一周会を企画したのは、明治41年正月である。旅行日数96日間、会費2,100円。
 日本の一般人による初の世界観光旅行であり、54名が参加したが、そのなかには野村証券の若き創業者・野村徳七の顔もあった。第2回世界一周会は43年にロンドンで開催される日英博覧会の観覧をかねて挙行している。参加者57名、銘酒「大関」社長の長部文治郎らも加わっている。
 同年に決行された白瀬中尉の南極探検隊のためにも、龍平は「朝日」紙上に義金募集の社告を載せ、6万円の応募金ではなお不足なので、社として2万5000円を寄附した。この探検の成功が日本人ばかりでなく、世界の耳目を集めたことは述べるまでもない。
 今日の甲子園高校野球の前身である、全国中等学校優勝野球大会を「朝日」主催にしたもの村山龍平だった。大正4年夏のその第1回大会は阪急電鉄沿線の豊中運動場で、第3回大会からは阪神電鉄沿線の鳴尾運動場で、そして大正13年の第10回大会からは、完成した甲子園球場で開催するようになり、人気がいっそう白熱していった。
 この大会のアイデアは、阪急電鉄の小林一三のものであったが、主催者はやはり文化事業への援助を惜しまぬ「朝日」と決めて話を持ち込んできた。第1回大会の費用は1万円を要するという。
 社会部長の長谷川如是閑が龍平に説明すると、一運動競技のために新聞社が1万円を投ずるなど無謀にひとしかったのに、「よくわかった。善は急げというから、すぐに準備にかかるがよかろう」と即座に、この場合も「果敢な決心」をしてみせたのだった。
 第1回大会の当日は、紋付羽織に袴姿の龍平自らマウンドに立ち、始球式を行っている。参加高校は10校、京都二中が優勝した。「毎日」が春の大会(選抜)の主催者になり、「読売」の正力松太郎がプロ野球を育てたりしたのは、龍平の亜流とみられた。
 晩年の龍平が、一人娘の村山藤子さんに「自分ほど幸福な時代に生まれたものはない」と語っているのは、幾多の受難をこうむったこともまた、男子の本懐だと自負してきたからなのだろう。
 大阪朝日本社で行われた定例の通信会議の席上、彼が幹部や支局長ら50名に対して最後の(防衛的攻撃方針の)訓示をしたのは死ぬ1年前―昭和7年10月である。

小堺昭三(こさかいしょうぞう)
1928年5月、福岡県大牟田市生まれ。旧制福岡県立八幡中学校を卒業し、火野葦平の秘書を務めた。「週刊文春」のルポライターを経て作家となり、1951年「朝鮮海峡」で新潮社文学賞佳作。1959年「基地」で芥川賞候補、1960年「自分の中の他人」で直木賞候補。「密告―昭和俳句弾圧事件」では西東三鬼を特高のスパイと断定し、三鬼の遺族から版元ともども名誉毀損で民事提訴され敗訴した。1995年3月逝去。