• ニュースフラッシュ
  • インタビュー
  • 製品情報
  • 包装関連主要企業
  • 包装未来宣言2020

トップページ > インタビュー

インタビュー

生活社会との掛け合いで生命感を鼓舞するパッケージ

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 昨年(2018年)の暮れ、東京国立博物館の特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」を観賞した。快慶の十大弟子立像やその弟子・行快の釈迦如来坐像、運慶の弟子・肥後定慶の六観音菩薩像など、大報恩寺秘蔵の鎌倉彫刻の名品である。
 さすがに身の丈ほどの仏像が林立するなかを観賞すると、何かしら身に迫ってくるものがある。入り口で出迎えられた立像に、手を合わせてお辞儀する老女がいた。仏像に限らないかもしれないが、ときを経てもなお作者の思いが宿っているのかもしれない。
 誰しも歳を重ねれば、仏像に興味を抱くようになるのかもしれない。ただ哲学者の梅原猛氏の著書を幾つか読んだことがきっかけである。とくに著書「歓喜する円空」では、仏像というものがぐっと身近に感じられるようになった。
 もとより専門的な知識などの裏づけに依るものではなく、様々な作風のなかにも同様な作者の情熱といったものが伝わってくるかである。たとえば快慶の十大弟子立像は、その彫像のスケールの大きさや十大弟子の立ち居、風貌といった特長の表現に至っては想像力が滾ったに違いない。
さすがに700年に及ぶときを経れば、それらに施された色彩はほとんど失われている。それだけに立像に刻まれた個性が際立ってみえるともいえるが、(快慶の如くに)想像力を滾らせてみれば、生き生きと布教に精進する十大弟子の姿が浮かび上がってこよう。
 かつて聞いた「一仏二仏に非(あら)ず百仏二百仏に非ず、千仏まで来迎(らいごう)し手を取り給はんこと歓喜の感涙抑え難し」との仏説を思い出す。無限の広がりをもつのが生命の実相ではなかろうか。今回は「声に出して読みたい日本語」の著者として知られる、明治大学文学部教授・齋藤孝氏の著書「呼吸入門」(角川文庫)から一部を紹介する。
 
* * *
 
 笑いには、溜めた息を勢いよく「放つ」ことで、人々の心を解き放つ役割があります。狂言というのは、言葉は古めかしく、大真面目に演じていますが、それがなんともいえぬ滑稽さを醸し出しています。台詞の意味など分からない子どもが見ても、笑いが起こる。
 笑うことは、息を吐き出すことです。吐くとは同時に気持ちがリラックスし、解放されます。授業でも講演でも、真面目なことばかりやっていると、場全体に気がこもってきてしまいます。そこでジョークをいったり、小話や洒落を入れたりして、詰まっていた気を吐いてもらい雰囲気をほぐすわけです。
 深い呼吸ができると、再び集中しやすくなる。また、芸ではありませんが、息を強く放つものに、掛け声があります。空手では気合いを入れるときに「エイ」とか「ヤア」とか掛け声を発します。これが気合いというものです。武道の世界では、強い息にのせて強烈な打撃とかを繰り出すわけです。
 祭りの掛け声も気合いを入れるためのものです。「ワッショイ」とか「ソリャ」といった力強い言葉で、溜めている息を一気に放つのはとてもおもしろい。集団で息が加速して出ていくことで、生命感が鼓舞されます。その息の加速によって他の人も気合いが入るのです。
 これは、息をぐっと溜めていないと、声を出したときに気合いにならなくなってしまいます。溜める技があっての掛け声です。そういう意味では、「啖呵を切る」のも同じです。あれは息の勢いがないと様にならない。
 溜めておいて、細く吐きながら延々と言葉だけをつづけていく芸がある一方で、溜めておいた息を強く放つ芸、文化があった。そして様々な場所で息の見事さを味わうのは、日本人にとって、とても楽しいことだったし、人生の豊かさだったのです。
 大勢で息を合わせ何かをいったり、歌ったりすることは、私たちに強い生命力を感じさせてくれます。「声に出して読みたい日本語」のCDに収めた般若心経は、何十人もの僧侶の方たちが合唱しているものです。まるで、みんなの息という一つの生物を生かすためのパーツになっているようでした。
 延々と息が途切れることがないのです。もちろん、一人ひとりは途中で息を吸っているのですが、全体としてみんなで一緒に息継ぎするところはない。途中で一回も途切れることがないまま、ずっと吐きつづける呼吸法で詠まれている。
 聴いていて、非常に瞑想的な気分になりました。これを私の塾の子どもたちに聴かせたところ、子どももみな入り込んで聴いていました。信仰心の深い人でなくても、読経を聴くと気持ちが落ち着いて心に平安がもたらされるのは、あの息がつくり出すリズムにあるのだと思います。
 もちろんお経の意味も大事ではありますが、「色即是空、空即是色、...」というのは漢訳ですから、意味がそのまま日本人の心にすっと入ってくるというものではありません。むしろ、読経における息とリズムが心を癒やしてくれるのでしょう。
 先だって、学校で綱引きをやる機会がありました。私たちが子どもの頃には、みんなで「そーれ」と声を出して引いていたものですが、誰も声を出さないのです。子どもも大人も黙ったまま引いている。大変びっくりしました。
 綱引きなんてものは、タイミングを合わせみんなで呼吸を合わせるときに、波のように一気に力が入る。その力で引っ張るものなのです。声を出すとお腹に力が入って踏ん張りが利くし、気合いが入る。大勢の人間が力を合わせて何かに取り組むときは、必ず声を出して息を合わせるというのは民衆の知恵でした。
 祭りで神輿を担ぐときなども、みんなで「ワッショイ、ワッショイ」と掛け声をかけて盛り上げていきます。地方によっては「ソリャ、ソリャ」だったり「ソイヤ、ソイヤ」だったりしますが、いずれにしても溜めている息を一気に放つ発声なので、その息の勢いで気合いが入るわけです。
声を出しているときには息を吐いていますから、掛け声を一つに合わせるということは、息のリズムを一緒にすることです。それが神輿の揺れとみんなの息を一体化させ、弾むような動きとなるのです。
 神輿を担いでいる人たちの声と息が一つになり、それに連動してからだを動かすことは、自分の力と息が全体の力と息を支えている感覚につながります。同時に、自分の息が人の息に助けられている感じがする。
 私が小学生のころ、よく二クラスか三クラスの全員でプールに入って、水槽をかき回すように、みんなで円を描いてぐるぐる走ったものです。そうすると、大勢の人間が動くことで水が動き、流ができて、ちょうど流れるプールのような状態になります。
 ふと走るのを止めて、水の流れにからだを任せて浮いてみる。すると自分は浮いているだけで、流に乗ったまま動いていく。大勢のなかにいて他の人の息に助けられているというのは、そういう状態です。
 息と動作が連動してみんなで一体になった感覚は、自分自身のからだが大きなものの一部になったような気がします。自分もその一部として支えている存在なのですが、同時に周囲の人たちに支えられているという実感があります。この大きな一つのからだになったような感覚は、楽だし不安がありません。人間にとって大変に気持ちのいい状態です。
 私は教育再生の突破口は、息にあると考えています。息への自覚を呼び覚ますことで、学ぶ構えがつくられる。ザワザワとして集中できない身体、粘りのない心身の状態では、ザルに水を入れるようなものです。息を調え学ぶ、そして学ぶことを通して息が鍛えられる。
 このプロセスを通して、生命力と知力が結びつけられていくのです。かつて私たち日本人のものであった、この息と学びの結び目がどこで断ち切られたのか、それを見ることから始めたいと思います。

齋藤 孝(さいとう たかし)
1960年、静岡生まれ。東京大学法学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程などを経て、明治大学文学部教授。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。「声に出して読みたい日本語」で毎日出版文化賞特別賞受賞、「コミュニケーション力」「教育力」「古典力」「現代語訳 学問のすすめ」「地アタマを鍛える知的勉強法」など著書多数。