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インタビュー

パッケージは 試行錯誤をくり返す生活のプロセスの体現

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 22年のときを経てなぜか再び、作家の五木寛之氏の著書「大河の一滴 」(幻冬舎文庫)に関心を寄せる人が増えているという。著書には、全体を貫く主題ともいえる中国の老子と弟子との非常に興味深い禅門問答のようなエピソードが記されている。
 それは一人の弟子の「人生の本質とは?」との老子への質問から始まる。老子は自ら口を空け、なかを指差して「歯はあるか?」と弟子に問う。「歯はない」と答えると次に「舌はあるか?」と問う。弟子が「舌はある」と答えると、老子はそのまま答えることなく去ったというエピソードである。
 このエピソードからどんな答えを汲み取ることができるだろうか。かつて聞いた「正しい人生とは?」との質問へのある答えを思い出す。それは、戦後間もないころ一人の青年が真剣に発した問いへの「正しい人生とは何かを考えるのもよい。だが、考えるより実践してみなさい。青年じゃないか。いつか必ず自分が正しい人生を歩んでいることを発見するはずだ」との答えである。
 稚拙なりに老子の心中を察すれば、「歯は無くても舌があれば、いまだ私の為すべきことがある」となろうか。「人生の本質」また「正しい人生」とは、天命である使命の道を命尽きるまで、ただひたすらに歩みつづけてゆくことではなかろうか。
 今回は、作家の灰谷健次郎氏とカメラマンの石川文洋氏の文と写真で編まれた紀行「アジアを歩く」(枻文庫)である。1997年1月~2000年6月の約3年半をかけ、タイとベトナム、フィリピン、ビルマ、ラオス、ネパール、中国、インド、パラオ・ぺリリューの9カ国に渡った旅の収録である。
 また灰谷氏が世を去ったあとに発刊されたものであり、巻末には「親しくしていただいている方」と題した本人の遺書とともに、親しき友人からの追悼文も掲載された味わいのある一書である。そのなかからベトナムの旅を主に、灰谷氏と石川氏とがそれぞれ記された内容の一部を紹介する。
 
* * *
 
 ベン・タイン市場と呼ばれているホーチミン市の中央市場の前へきた。ホーチミン市の顔のようなところだ。
 「文洋さん。解放戦線の少年が、公開銃殺されたところは、確か、この近くでしたね」
 「ああ、そこだよ」
 それは、すぐ目の前だった。ここで一人の高校生が殺された。文洋さんは戦場カメラマンとして、直接、ベトナム戦争にかかわったから当然だが、私たちの世代の人間は、ベトナム戦争と韓国の民主化闘争を抜きにして、その思想形成はとても考えられないのである。
 戦争と平和、独立と自由、民族と国家、社会と個人、これらをとことん考えさせられたのが、この二つの闘いだった。レ・ヴァン・クェンという少年の死は、私にとって、その時代の象徴である。文洋さんは、この死刑執行の報を、開高健に伝えている。
 なにかの事情で、その執行が延ばされ、そのために文洋さんは、その場に立ち会っていない。別のルートで開高健は、早朝の公開銃殺を知り、その場面を「ベトナム戦記」(朝日新聞社)に、次のように書いた。
 
―柱にくくりつけられ、黒布で目隠しされようとしたとき、彼は蒼白で、震えていた。カトリックの教誨師、肥ってブタのような顔をした教誨師がつきそい、耳元で何かささやいたが、青年は聞いている気配はなかった。うなずきもしなかった。
 ただこわばって震えていた。痩せた、首の細い、ほんの子どもだった。汚れたズボンをはき、裸足で佇んでいた。短い叫びが暗がりに走った。立て膝をした10人のベトナム人の憲兵が10挺のライフル銃で一人の子どもを射った。子どもはガクリと膝を折った―
 
 私も、その瞬間をニュースフィルムで見ている。こうして彼の、まだ、うんと長かったであろう人生が消えた。1キロの地雷と手榴弾をもっていたという理由で。私は彼の血が流れたであろう場所で、いつまでも佇んでいた。この地球上で、何というたくさんの人が、自分の生を全うせずに死んでいったことだろう。
 独立や自由を勝ち取ったとしても、もう彼や彼女らの生は、再び甦ることはない。国家とはなんだろう。社会とはなんだろう。オートバイの流れを、私はそんな思いで眺めつづけた。(灰谷健次郎)
 

 
 1965年、26歳のときから4年間をベトナムのサイゴン(現ホーチミン)で生活した。貧乏カメラマンだったので、ホテルに泊まったりアパートを借りる余裕がなく、ベトナム人のファンさん一家に下宿していた。
 一家は4人家族だったが本当に親切で戦争の取材から帰ると無事を喜び、マラリアの高熱で苦しんでいるときは心を込めて看病してくれた。その間、ファンさんたちを他民族と意識したことはなく、全く家族のように感じていた。
 灰谷健次郎さんとの旅でファンさん一家を訪ねたとき、ファンさんも私を家族のように思っていたと灰谷さんに語っていた。ベトナムだけではなくほかの国へ行った場合でも、心が通じ合えば家族同様の生活ができると思う。
 アメリカでの生活に憧れたころもあったが、その後、私にはアジアの方が合っていると思うようになった。アジアの風に吹かれていると生きていることの幸福を感じ、何ともいえないような心地よい気分になってくる。灰谷さんはどの国の子どもとも仲良くなる。
 その様子を見ていて親たちも安心して打ち解けた空気が流れる。食べ物が旨い。ベトナムのヌクマムは有名になったが、アジアの国々には魚の塩漬け汁を漉したしょう油のような調味料がある。魚の匂いがするので、敬遠する外国人もいるが、このしょう油が合う人はアジアをもっと好きになる。
 私たちは食事をするときにはいつも魚しょう油を追加した。ラオスでは蒸したモチ米を手で握りながら、ナンパー(魚しょう油)をつけるといくらでも食べられるので太らないかと心配になったほどだ。酒も旨い。どの国にも味の良い地酒がある。
 旨い酒を飲むというのは私の生き甲斐である。旅先で親しい人と飲む酒ぐらい旨いものはない。灰谷さんとは本当に旨い酒を飲むことができた。米を原料にした焼酎であるベトナムのルアモイ、ラオスのラオラオは良い酒だったなぁ。
 市場が楽しい。市場を訪ねて果物を買って食べながらみて回る。市場には活気があるので、売る人、買う人の表情を眺めているとこちらも元気が湧いてくる。ほかのアジアの国々と比較して日本は物質的に豊かだと思う。
 しかし、アジアの元気な子ども、川で洗濯をしながら語り合っている農婦たちの姿を眺めていると幸福を物の量で計ることができないことをあらためて感じた。(石川文洋)
 

 
 何度もくり返すが、私はアジアが好きだ。アジアだけを旅しているわけでもないが、つい、それを口にしてしまう。どの国もどの地方を旅しても、得るところはあるし思うこともある。ではなぜアジアなのか。血が叫ぶというより仕方ないと思いつつ、その輪郭のようなものをさらに追及してみると、どうやらアジアの人に突き当たるようだ。
 それは、かつての自分であり自分の国であり、人が人として国が国として試行錯誤をくり返しながらも逞しく成長していくプロセスのなかに、最もドラマチックなものをみるからであろう。欧米と比較して、アジアは多くの部分で泥臭さが匂う。そこがおもしろくもあり、私は魅力を感じてしまうのである。
 アジアの哲学は、このような人間臭さのなかから生まれたものと、私は固く信じている。

灰谷健次郎(はいたに けんじろう)
1934年10月、兵庫神戸市生まれ。定時制高校商業科を卒業。大阪学芸大学(現・大阪教育大学)学芸学部を卒業後、17年間小学校教師を務めたのちアジアや沖縄を歩く。1974年に小説「兎の眼」を発表し、1979年に山本有三記念第1回「路傍の石」文学賞受賞。ほかに「太陽の子」「天の瞳」など著書多数。2006年11月23日に逝去。
 
石川文洋(いしかわ ぶんよう)
1938年3月、沖縄那覇市首里鳥堀に生まれ。千葉で育ち、都立両国高等学校定時制を卒業。毎日映画社に勤務し、26歳のときに沖縄から貨客船に乗って香港へ。1965年1月から1968年12月までサイゴンに住み、ベトナム軍とアメリカ軍に従軍。1969年、朝日新聞社に入社し出版写真部部員、1984年からフリーカメラマン。