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インタビュー

未来につながるパッケージへの根源的な問い掛け

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 いまだ「ホテルに582人避難、 行方不明者18人」(7月11日現在)などと報じられている、熱海での土砂災害で亡くなられた方々のご冥福とともに、安否不明者の無事を心よりお祈り申し上げたい。また被災された方々には、心よりお見舞いを申し上げたい。
 去年7月の熊本人吉での豪雨災害から1年目の追悼式とも重なり、あらためて(明日はわが身との)災害に対する危機管理と備えの大事さとともに生きる上での覚悟や、生かされていることへの感謝を忘れてはならないと思い知らされる。
 気象予報士の森田正光氏なども、「『いつか来る』ではなく『必ず来る』と覚悟を決めて対策を練る」ことをうながしてはいても、一方で(想定外の)類のない災害に備えるむずかしさには苦心しているようだ。「覚悟」とは一般的に、「悪い事態を予測して心の準備をすること」の意である。
 だが、「覚悟」は「備え」と必ずしも一致するものではない。むしろ「詮ずるところは天(の加護)も捨て給え」といった言葉の示すものは、「予測」や「備え」を捨てた「覚悟」であろう。シンプルに考えれば、「人事を尽くして天命を待つ」とも通じるが、「今を生きる」(全集中の呼吸)ことに尽きよう。
 前号に紹介した写真家の星野道夫氏が、愛情深くレンズに映しつづけたヒグマに襲われ、43歳の若さで亡くなられたことは周知であろう。「彼はクマになった」という人もいるが、それは星野氏の「覚悟」の生き方を映し取った言葉に違いない。
 今回は、東日本大震災から10年目に刊行されたNHKメルトダウン取材班による734ページに渡る珠玉のノンフィクション「福島第一原発事故の『真実』」のエピローグから一部を紹介したい。10年を掛けて取材した関係者は1500人以上におよぶ事故の真相に迫る超大作である。
 
* * *
 
 あの事故で死を覚悟したときはあったのか。この10年、事故対応にあたった幾人もの当事者にそう尋ねてきた。ほぼ例外なく「死ぬと思った」という答えが返ってきた。とりわけ事故4日目の3月14日、2号機が危機に陥ったとき「もう生きて帰れないと思った」と語る人が多かった。
 家族に宛てて書いたという遺書を見せてくれた人もいた。このとき、冷却が途絶えた2号機は、何度試みてもベントができなくなり、なんとか原子炉を減圧したが、消防車の燃料切れで水を入れることができず、原子炉が空焚き状態になった。
 テレビ会議では、吉田所長や武藤副社長が血相を変えて「格納容器がぶっ壊れる」「とにかく水を入れろ」と怒鳴っている。のちに吉田所長は、「このまま水が入らないと核燃料が格納容器を破り、あたり一面に放射性物質がまき散らされ、東日本一帯が壊滅すると思った」と打ち明けている。
 吉田所長が語った「東日本壊滅」は、事故後、専門家によってシミュレーションが行なわれている。当時の菅総理大臣が近藤駿介原子力委員会委員長に、事故が連鎖的に悪化すると最終的にどうなるのかシミュレーションをしてほしいと依頼して作成された「最悪シナリオ」である。
 最悪シナリオによると、もし1号機の原子炉か格納容器が水素爆発して、作業員が全員退避すると、原子炉への注水ができなくなり、格納容器が破損。2号機、3号機、さらに4号機の燃料プールの注水も連鎖してできなくなり、各号機の格納容器が破損。
 さらに燃料プールの核燃料もメルトダウンし、大量の放射性物質が放出される。その結果、福島第一原発の半径170キロ圏内がチェルノブイリ事故の強制移住基準に達し、半径250キロ圏内が、住民が移住を希望した場合には認めるべき汚染地域になるとされている。
 半径250キロとは、北は岩手県盛岡市、南は横浜市に至る。東京を含む東日本3000万人が退避を強いられ、これらの地域が自然放射線レベルに戻るには、数十年かかると予測されていた。この東日本壊滅の光景は、2号機危機の局面で、吉田所長だけでなく最前線にいたかなりの当事者の頭を過ぎっている。
 しかし、2号機の格納容器は決定的には破壊されなかった。なぜ、破壊されなかったのか。そこに、決死の覚悟で行なわれた幾つかの対応策が何らかの形で貢献していたのだろうか。私たち取材班は、この疑問にこだわって、事故から10年にわたって事故対応の検証取材をつづけてきた。
 この謎を解き明かすことが、人間は核を制御できるのかというこの事故が突きつける根源的な問いの答えに近づけるのではなかいと考えたからである。なぜ、格納容器は破壊されなかったと思うか。免震棟にいた何人もの当事者にも聞いたが、明確な答えは返ってこなかった。
 原子炉が空焚きになって2時間後に始まった消防注水が奏功したのではないかと水を向けても、事故対応の検証に真摯に向き合っている当事者ほど「証拠がなく安易なことはいえない」と首を振った。事故から2年。この謎を包んでいた厚いベールが剥がれ始めてきた。
 廃炉作業が進むうちに原子炉や格納容器に溶け落ちた核燃料デブリの状態が垣間見えてきたからである。ベントができず肝心なときに水が入らなかったため過酷な高温高圧状態だったと思われた2号機の原子炉や格納容器のなかには、思いのほか溶け残っている金属が多く、予想に反して高温に達していなかったことが分かってきた。
 その理由は、皮肉にも肝心なときに水が入らなかったことではないかと研究者は指摘している。メルトダウンは、核燃料に含まれるジルコニウムという金属が高温下で化学反応を起すことで促進される。
 消防車の燃料切れでしばらく水が入らなかった2号機は、水-ジルコニウム反応が鈍くなり、1号機や3号機に比べて原子炉温度が上昇せず、メルトダウンが抑制された可能性が出てきたのである。
 さらに格納容器は破壊ぎりぎりの高圧になったが、上部の継ぎ目や、配管との接続部が高熱で溶けて隙間ができ、図らずも放射性物質が漏れ出していたことも破壊を防いだ一因とみられる。
 そして2号機は、電源喪失から3日間にわたってRCICと呼ばれる冷却装置で原子炉を冷やしつづけていたため、核燃料のもつ熱量が、1号機や3号機に比べて小さくなり、メルトダウンを抑制させたのではないかと指摘する専門家もいる。こうした僥倖が複雑に折り重なって、格納容器は決定的に壊れなかった。
 しかし、もしこうした僥倖の何かが欠けていれば、果してどうなっていたか。吉田所長ら当事者の頭を「最悪シナリオ」が過ぎったのち、私たちの目の前に、事故後日本社会が積み上げてきた10年とまったく違った10年が広がっていたのかもしれない。
 核の暴走に人間が向き合った最前線では、ときに決死の覚悟と英知が最悪の事態からの脱出に寄与したこともある。2号機の危機でも3日間奇跡的に原子炉を冷却しつづけたRCICは、津波で電源喪失する直前に中央制御室の運転員がとっさの判断で起動させたものだった。
 しかしこうした人間の力をはるかに超えた偶然が重なって、2号機は格納容器が決定的に壊れるという事態を免れた。それが事故から10年経って見えてきた「真実」ではないだろうか。―(中略)―この極限の危機において、人間は核を制御できていなかった。
 それが「真実」である。ただし、これは「10年目の真実」だろう。このあと、廃炉作業のなかで新たな事実が浮かび上がったとき、これまでの事故像が一転して変わるかもしれない。―(中略)―事故から10年を過ぎても事故後は変わりつづける。
 これから最難関の核燃料デブリの取り出しのために原子炉や格納容器、そしてデブリの詳細を粘り強く調査していかねばならない。そこから見つかる新たな事実や知見は核の暴走の後始末に役立つだけでなく、人間の対応が危機の回避にどこまで貢献していたのかを見極めることにつながる。

NHKメルトダウン取材班
近堂靖洋(報道局 編集主幹)/藤川正浩(制作局 第3制作ユニットチーフプロデューサー)/山崎淑行(報道局 科学・文化部 ニュースデスク)/鈴木章雄(仙台拠点放送局 チーフディレクター)/花田英尋(秋田放送局 ニュースデスク)/大崎要一郎(福島放送局 ニュースデスク)/岡本賢一郎(京都放送局 記者)/沓掛愼也(福井放送局 ニュースデスク)/重田八輝(報道局 科学・文化部 記者)/阿部智己(報道局 科学・文化部 記者)/藤岡信介(報道局 科学・文化部 記者)/長谷川 拓(報道局 科学・文化部 記者)/右田可奈(元福島放送局 記者)