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「過ちはくり返さぬ」と蝉しぐれ
今年は戦後80年、原爆投下から80年の節目を迎える。先に行われた広島・平和公園での平和記念式典には、被爆者や遺族の代表をはじめ、石破茂首相のほか、過去最多となる120の国・地域の大使などを含む、およそ5万5,000人が参列した。
80年を経た最大の課題は、全国の被爆者の平均年齢が86歳を越え、10万人を下回るなど、被爆体験を直接聞くことがむずかしくなってきたことである。だが、いずれ直接聞くことのできなくなることは摂理なれば、80年の節目を「再生」のときとすべきではなかろうか。
「再生」とはいかに。鴨長明はかの「方丈記」に「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と記しているではないか。かつて「ヒバクシャ」であり、平和運動家のサーロー節子(Setsuko Thurlow)氏は講演のなかで自らの体験をこう語っていた。
「爆心地から1.8kmの距離にあった建物は倒壊し、(なかにいた私は)意識を取り戻すと、瓦礫に挟まれて動けなくなっていた。(中略) 私は『このまま死ぬのだろうか』と考えた。そのとき誰かが私の左肩を掴み『諦めるな。動いていけ。光が見えるだろう。這って行くんだ』と。声の主は見えなかっが、わずかに差す光の方向を目指し、外に這い出た」と。
記念式典では広島の湯崎英彦知事は挨拶に、その言葉を引いて「われわれもけして諦めず、粘り強く、核兵器廃絶という光に向けて這い進み、人類の、地球の生と安全を勝ち取ろうではありませんか」と結んだ。
今回は再び、編集者の松岡正剛氏の著書「日本文化の核心-『ジャパン・スタイル』を読み解く」(講談社現代新書)から一部を紹介したい。
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私の仕事は編集(editing)によって世界を見ることにありました。世界はどのように編集されてきたのかということを考えてきたのです。私が所長をしている編集工学研究所の合言葉は「生命に学ぶ/歴史を展く/文化と遊ぶ」というもので、世界を生命観・歴史観・文化観を通してどのように編集していけばいいのかということを課題にしてきました。
設立当初から変わっていません。しがたって日本の歴史文化や社会文化についても、当然、編集的に見るということが眼目になったのです。第14講「ニュースとお笑い」のところでもいっておいたように、科学であれ、歴史であれ、産業であれ、どんな世界も「情報を編集するプロセス」ででき上がっています。
世界はのっぺらぼうではなく、常に何らかの情報を提供しています。その情報は必ずや編集されてきた。編集されていない情報なんてありません。しかし、あらゆる現象があらかじめ情報化されているわけではないので、編集するにはまず「現象の情報化」が必要です。
その情報化されたコードと色々編集して多様なモードに転換していく。まず情報化、次に編集化。「編集的になる」とはこのことです。生物体の場合は、生命活動を細胞のイオン情報やDNAの遺伝情報や脳内の高分子情報にしてきました。
そして、それらを編集して、生物は生物としての進化と活動というモードをつくり上げてきた。人間の場合は、まず言葉や文字や数字や図形をコードとして、それを組み合せて文明や文化というモードを仕立ててきたわけです。情報化されたコードを駆使して建築や文芸や絵画を編集してきたわけです。
生物も人間も情報化が先行し、そのあとに編集化が試みられてきたのです。情報化によって何ができるようになるかというと、現象的な情報がしかるべき記号単位で当該システムにエンコードできるようになります。またいつでもデコードして取り出せるようになる。
これで情報はトラフィック可能、コミュニケーション可能です。ここまでが編集以前の作業で、編集はこの当該システムを充実させたり、環境に適応させたり、さらなる欲望を満たすための作業にあたります。世界史上に様々な民族が登場して、次々に情報化と編集化を起こしてきました。
情報編集をしない民族などありえません。そこには、エンコードとデコードのためのプロトコルの違いが生じました。言葉や文字が最も決定的なプロトコルの違いです。アジア大陸から孤立した倭人や日本人は縄文語や土器や木の実や米を使って、編集を始めました。
日本神話の物語はそのときの記憶です。そこには大陸から漢字が入ってくると、そのエンコードとデコードのやり方にくわえて、新たな仮名コードや読み書きモードによる編集に着手した。こうして日本文化は開花していった。
そのあと、日本文化が格別の編集力を発揮するのですが、私はその特色が「面影を編集する」というところに出たと見ているのです。日本人は記憶のなかの面影を情報化し、そこに編集をくわえていったのです。
和歌も能も、俳諧も浮世絵もそのようにして生まれ、溝口健二や藤沢周平はそのような面影を映画や小説にし、美空ひばりや井上陽水はそうした面影を歌っていったのでした。
ジョン・ダワーは「日本はJapanではなく、Japansとして見た方がいい」と示唆したことがあります。ダワーの見方は日本を複合的にとらえるということですが、それは私にとっては日本の面影を編集的にとらえるということにあたっているのです。
日本文化は身近にあるものです。CVSのPETボトルのお茶もおにぎりも「ガリガリ君」も日本文化です。ヨウジの服もコムアイの歌も卓球の美誠パンチも日本文化です。むろん藤沢周平も、「君の名は。」も、サンドイッチマンの漫才も日本文化です。
しかし、これが能や歌舞伎や茶の湯とどんな親和性をもつのかは、にわかに説明しにくくなっています。こういう場合は、バックミラーに映る日本の歴史文化をチラチラ眺めながら、目の前のCVSやアニメやテレビ番組で起こっていることを見るのがいいと思います。
私が日本文化に関心をもちはじめたのは、大学でフランス文学に取り組んだとき、それはプルーストを研究したときだったのですが、その主人公がプチットマドレーヌを紅茶に浸した瞬間に「失われた時」にさかのぼっていけたことに興味をもってからのことです。
私なら何によって「失われた時」をさかのぼれるだろうかと思い、それで少年時代の日々に戻って色々思い出してみたところ、亡くなった父が呉服屋の店先で相手にしていた反物やソロバンが蘇ってきました。
それを手掛かりにしてみると、ついで舟橋聖一の「悉皆屋康吉」が追い求めた「納戸色」という染め色がやってきました。納戸をあけたときに、その空間に充満している青黒い不思議な色が「納戸色」です。
その納戸色のバックミラーに関戸本古今集の料紙が表れ、公家の文化の調度品の細部が表れ、その「あはれ」が武家文化では「あっぱれ」という破裂音をともなっていくのが聞こえてきました。それから先は百花繚乱、千差万別の日本文化が次々にカサネ・アワセ・ソロイをくり返してきました。
歴史や文芸や思想に取組んだのはそのためです。それなりに「濃い日本」に出会えましたが、何かが自分には足りないと感じていました。「日本」を抉るブラウザーが手元にないのです。おベンキョーばかりが進むのです。
これはまずいと思って、こうして一方で日本神話の構造から何を引き出すと何がくっついてくるのか、他方では近代日本の構造のどこを突っ込むと何が爆ぜていくのかを、できるだけ同時に解読するように努めたのです。
そんなことで気づいたときは、私は「編集的日本像」というものに立ち会っていることになったのでした。日本文化はテーマだけでは語れない、ジャンルを跨いだ方法によって語りたいという見方に分け入っていったのです。

松岡正剛(まつおか せいごう)
1944年、京都市生まれ。早稲田大学仏文科出身。東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を経て編集工学研究所の所長、イシス編集学校の校長を歴任。1971年に友人らと工作舎を設立し、雑誌「遊」を創刊する。
1987年に編集工学研究所を設立し、日本文化、経済文化、デザイン、文字文化、生命科学など多方面の研究成果を情報文化技術に応用する「編集工学」を確立。日本文化研究の第一人者として「日本という方法」を提唱し、私塾「連塾」を中心に独自の日本論を展開。2000年にはイシス編集学校を設立、書評サイト「千夜千冊」の執筆をスタート。2024年8月に80歳で死去。